案山子のダンス

戯れに、小説など。照れますな。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

聖神社(その四百三十二)

牛若は、唐木造りの階段を六七段上り、内部をつくづくと眺めました。

そこには、納言(大、中、少納言)、宰相以下北面の武士までの者たちが、衣冠を正して、居流れていました。

その者たちは、牛若を見て、「いかにも方々よ。今も昔も、この内裏に人間が参内したことはなかった。不思議なことだ。」とひしめき合い、「さて。いかなる人か」と尋ねました。
スポンサーサイト
  1. 2014/09/30(火) 01:21:03|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百三十一)

七宝とは、仏教において、貴重とされる七種の宝のこと。

無量寿経においては、「金、銀、瑠璃(るり)、玻璃(はり)、硨磲(しゃこ)、珊瑚(さんご)、瑪瑙(めのう)」とされ、法華経においては、「金、銀、瑪瑙、瑠璃、硨磲、真珠、玫瑰(まいかい)」とされる(Wikipedia)。
  1. 2014/09/30(火) 00:42:36|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百三十)

鐵の築地の内側には、四十丈の銀の築地があり、夕日をかかげた銀の門が立っています。

さらに内には、三十余丈の金の築地が連なり、金の門には朝日がかかげられています。

白州には、金の砂が敷き詰められています。

牛若は臆せず、中に入り、屋形の様子を眺めます。

七宝を張り付けた造作で、音に聞こえた極楽でも、これに勝ることはないだろうと牛若は思いました。
  1. 2014/09/29(月) 01:15:18|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百二十九)

牛若はお告げを有難く頂戴して、山の崖際を辿りながら、尋ね歩きました。

ほどなく、五色の築地が見えてきました。

教えられたとおりに足を急がせる牛若の前に、やがて天狗の内裏の東門が姿を現しました。

牛若がまず外の築地を眺めると、八十丈を超える長さの石の築地に,石の大門が築かれています。

その内側には、六十余丈の鉄の築地が築かれ、鉄の門が建っています。
  1. 2014/09/29(月) 00:00:26|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百二十八)

源有り難く思召し、嶮(けは)しき山の岨伝(そはつた)ひ、尋ね給へば程もなく、五色の築地見えたり。
牛若嬉しく思召し、我この程心を尽し、彼方此方とせしかども、尋ね逢ふ事あらなくに、斯かる奇特(きとく)の有り難さよと思召し、教(をしへ)の如く急がせ給ひける程に、真(まこと)に天狗の内裏の東門(とうもん)ま近く著かせ給ひ、先づ外(そと)の築地を御覧ずるに、石の築地を八十余丈に築(つ)き上げて、石の大門を建て、それより内には、鉄(くろがね)の築地を六十余丈に築(つ)き上げて、鉄の門を建て、それより内には銀(しろがね)の築地を四十丈に築(つ)き、銀の門には夕日を出して立て給ふ。それより内には金(こがね)の築地を三十余丈に築(つ)かせ、金の門には朝日を出して立て給ふ。白洲(しらす)には金(こがね)の砂(いさご)を敷きたり。御曹司はをめず内に入り給ひ、屋形の様(やう)を御覧ずるに、七宝を展(の)べたる如くにて、音に聞えし極楽世界といふとも、これには勝らじとぞ見侍る。
御曹司は唐木(からき)の階(きざはし)を六七間(けん)上(あが)らせ給ひ、内の体(てい)をつくづくと御覧ずれば、納言(なごん)、宰相巳下(さいしやういげ)、北面(ほくめん)の者共が、衣冠気(いくわんけ)高く引繕ひ、ひつしと居流れ並居たり。源を見奉り、「如何に方々(かたがた)、上古にも末代にも、この内裏へ人間の参る事あらず。不思議なり」とぞ犇(ひしめ)きける。「さて如何なる人ぞ」と尋ねける。
源この由聞召し、「我等と申すは、この山にて学問致せし少人(せうじん)なるが、当山(たうざん)にて七十五人の稚児(ちご)の中より、今日某(けふそれがし)花の盤(ばん)に指(さ)され申して、花を尋ねて出でければ、斯かる内裏へ参りたり。東方(とうはう)ならば薬師の浄土、南方ならば観音の無垢(むく)世界かなんどと存じ候。とてもこれまで参りてあれば、帝(みかど)に御目にかかりたき由、奏聞(そうもん)ありて賜(た)び給へ」と仰せければ、この由人々承り、「只人(ただびと)とは見え給はず。如何様(さま)奏聞申せ」とて、紫寝殿(ししんでん)に参り、大天狗(だいてんぐ)にこの由斯くと申しければ、大天狗はもとより神通(じんつう)の事なれば、「よしよし苦しうなき人ぞ。源氏の遺腹(わすれがたみ)に、牛若殿と申すぞや。如何にも御馳走申せ」とて、畳には縁金(へりがね)渡し、段々叢雲(むらくも)に敷かせ、柱をばこんきんどんきんにて巻き、天井をば金(きん)や唐綿にて張り、正座(しやうざ)には、畳七畳重ねて敷き、銀(しろがね)ぶんとう立てらるる。
  1. 2014/09/28(日) 01:01:36|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百二十七)

「三界無安 」とは、三界に平穏さがないことをいいます。

三界とは、欲界、色界、無色界の三つの領域のことです。

人が生まれ、そして死ぬという輪廻する三世界を意味します。

「法華経」譬喩品の出典です。

青、黒、黄の築地は、きっと幻でしょう。

それらは三界無案の塵のようなものだから、気にせず踏み破って進めとの指示でしょう。
  1. 2014/09/28(日) 00:00:20|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百二十六)

そして、若法師姿の毘沙門天は牛若の前に立ち、「いかにも牛若、お聞きなさい。天狗の内裏へ参りたければ、これより「さんかい」に上りながら、尋ね行けば、五色の築地があるので、白い築地を左にみて、赤い築地を右にみて、青い築地、黒い築地、黄の築地を、三界無安の塵と思い、ただどうと踏み鳴らして進んでいけば、必ず内裏に行きつくであろう。」と教えられてから、たちまちかき消すように失せてしまわれました。
  1. 2014/09/27(土) 05:42:33|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百二十五)

老僧の言葉が終わると、牛若の夢はそのまま覚めました。

牛若は何度も礼拝を繰り返してから、夜もほのぼのと明けてきた御坂口に出かけ、今や遅しと待ち受けました。

毘沙門天は、二十歳ばかりの僧となって、お姿を現されました。

素絹の衣に紋紗の袈裟を御掛けになって、水晶の数珠を爪繰っておられます。
  1. 2014/09/27(土) 03:37:19|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百二十四)

一心にお祈りする牛若丸。

夜もようやく更けてまいりました。

そこは子供のこと、昼間の疲れからか、少しうとうと微睡みました。

有難いことに、毘沙門天は八十ばかりの老僧のお姿で、牛若の夢枕に立たれました。

「牛若よ。天狗の内裏に行きたければ、五更の頃に、御坂口で待っていなさい。必ず教えてあげる。」

五更とは、現在の午前3時から午前5時に当たります。
  1. 2014/09/26(金) 11:23:42|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百二十三)

源(牛若丸)は、幼少の頃から、毘沙門天に深く帰依しておりました。

そこで、この天狗の内裏についても、毘沙門天にお祈りして、お尋ねしようと決心いたしました。

三十三度もの水垢離をしてから、毘沙門堂に籠りました。

そして、金打してから、懸命にお祈りをしました。

「肝胆(かんたん)を砕きて祈られけり」という表現が面白いです。
  1. 2014/09/26(金) 09:21:15|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百二十二)

源(みなもと)心に思召すは、我幼(いとけな)かりし頃よりも、毘沙門に深く頼みを懸け申す。

この内裏をも毘沙門へ祈誓(きせい)申して尋ねんとて、三十三度の垢離(こり)を取り、毘沙門堂へ入り給ひ、鰐口(わにぐち)ちやうど打鳴し、「南無や大慈大悲の多聞天(たもんてん)、我等年月歩(としつきあゆみ)を運(はこ)びし御利生に、天狗に逢はせて賜(た)び給へ」と、肝胆(かんたん)を砕きて祈られけり。

夜も漸う更け行けば、少し微睡(まどろ)み給ひしに、有り難や毘沙門は、八旬許りの老僧と現じ給ひて、牛若君の枕上に立たせ給ひ、「如何に牛若、天狗の内裏が望みならば、五更(ごかう)の天も明け行かば、御坂口(みさかぐち)に待ち給へ。必ず教へ申さん」と宜ひて、夢はそのまま覚めにけり。

源いよいよ信を取り、数(かず)の礼拝(らいはい)参らせて、夜もほのぼのと明け行けば、御坂(みさか)口に立出でて、御利生は今や遅しと待ち給ふ。

忝くも毘沙門は廿(はたち)許りの法師と現じ、素絹(そけん)の衣(ころも)に紋紗(もんしや)の袈裟、皆(みな)水晶の数珠爪(じゆずつま)ぐり、けんしゆしやう(ママ)の沓を穿(は)き、牛若君の先に立ち、「如何に牛若聞き給へ。

天狗の内裏の望みならば、これよりさんかい(ママ)に上(のぼ)りつつ、尋ね給ふことならば、五色(ごしき)の築地(ついぢ)があるべし。

白き築地をば左手(ゆんで)になし、赤き築地を右手(めて)になし、青き築地、黒き築地、黄なる築地を、三界無安(さんかいむあん)の塵(ちり)と定めて、ただ一どうに踏み鳴して行かば、必ず内裏に行き著くべし」と教へ給ひて、掻消すやうに失せ給ふ。
  1. 2014/09/25(木) 01:32:42|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百二十一)

毘沙門天の再誕とまで言われた判官(牛若丸)は、七つのときに鞍馬寺へ上り学問に励みました。

なにしろ、七つの年には法華経一部八巻、八つの年には大般若経六百巻、倶舎経三十巻、噴水経十四巻も読破したというのですから、これは神童以外の何者でもありません。

この神童は、ある日、ふと「こんなことではいけない、親の仇を討たねば」と一念発起しました。

それには、武術の習得が必要です。

鞍馬山中には「天狗の内裏がある」と聞き伝えておりました。

是非そこを尋ねてみたいと思いたち、来る日も来る日も探しまわりましたが、さっぱり見つかりません。
  1. 2014/09/25(木) 00:00:43|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百二十)

「お伽草子」に「天狗の内裏」という話が載っています。
 


さる程に、判官殿は七つの年より鞍馬の寺に上(のぼ)らせ給ひて、御学問を召されつるが、もとよりこの君は毘沙門の御再誕の若君にて坐(まいま)せば、七つの御年法華経一部八巻、八つの年大般若経(だいはんいやぎやう)六百巻、倶舎経(くしやきやう)三十巻、噴水経(ふんすいきやう)十四巻、草紙にとりては源氏、狭衣(きごろも)、ふらうえい(ママ)、ひちやうたはたまきすずり(ママ)、ふらうえんしゆ(ママ)、古今、萬葉、伊勢物語、百余帖の草尽し、八十二帖の虫尽し、鬼が読みける千島の文(ふみ)、すきのみやきりせがつぼ(ママ)なんどとて、草紙にとりても二千四百二十四巻を読み明し、源(みなもと)心に思しけるは、悟りとやらんいふ事を、少し見ばやと思召し、十歳の時よりも、参学(さんがく)に上(あが)らせ給ひて、十三と申すに一千七百則(そく)を明し給ふ。

或日の雨中(うちゆう)の徒然(つれづれ)に、南の壷に立出でて、花を眺めて在(おは)せしが、少し半(なかば)も過ぎぬれば、実(け)にや真(まこと)に花も盛はいと少し。人間も斯くの如し。

我は幼(いとけな)き時父を討(う)たせ、親の敵(かたき)を討たずして、暮れなん事はいと口惜し。

実(まこと)や、我等が先祖の八幡太郎義家は、十五の御年門出(かどいで)し、名を天下に揚げ給ふと承る。

恐れ多き事ながら、先祖を嗣(つ)いで、十五にならば門出すべし。然(さ)れば十三の年までこの山にて、徒(いたづら)に日を送りけるこそ無念なれ。

実(まこと)やらんこの山に、天狗の内裏(だいり)と申すをば、音には聞けど目には見ず。如何にもしてこの内裏を見ばやなんど思召し、雨の降る夜も降らぬ日も、風の立つ日も立たぬ夜も、彼方此方(かなたこなた)と草木(くさき)を分け、尋ね巡らせ給へども、天狗はもとより神通自在(じんつうじざい)の者なれば、天狗の内裏は見えざりけり。
  1. 2014/09/24(水) 03:17:15|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百十九)

話題が脇道に逸れすぎました。

筆者が申し上げたかったことは、ただ一つです。

それは、飛鳥時代から、この国にも胡人が渡来していたのが事実であるなら、あの特異な天狗面もあながち伎楽面からだけの連想ではないのではなかろうかということです。

なにしろ、わがご先祖様方は、「実物」の胡人の風貌に接していたのですから。
  1. 2014/09/24(水) 03:04:23|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百十八)



以下、次のサイトを引用させていただきます。

http://www.asobine.com/article_blog.php?shopid=409&blogmode=new&story=BL0000004241

「ところが、タラミタ(太良未太)もモンケコシ(文買古子)も、その音はまったく中世ペルシャ語によるという。タラは宮や倉庫などの大建築、ミタは有能とか巧みな人の意という。次のモンケは本来鑿(のみ)、ユシは定規(じょうぎ)のことで、それらを自由に操る建築士の意だという。要は太良未太や文買古子は人名でなく、職能を現し、建築の指導に当たった”巧みな大工”とか”建築師”の意になるという。ろ盤(ばん)博士の<白昧淳(ハクマイジュン)>、瓦博士の<麻奈文奴(マナモンス))、<陽貴文(ヨウキモン)、陵貴文(リョウキブン)><昔麻帝弥(シャクマタイミ)>、画工<白加(ハクカ)>も同様にそれぞれの職能、器物の意であり、それを作る職能、技術の指導者の意だという。(伊藤義教<ペルシャ文化渡来考>岩波書店・1980年) 」
  1. 2014/09/23(火) 22:52:33|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百十七)

 ペルシャ学の権威である京都大学名誉教授の伊藤義教氏によると、たとえば、「太良未太」(タラミタ)は写音文字であり、中世ペルシア語の音によれば、タラは宮や倉庫 などの大建造物を指し 、ミタは優秀・有能と言った意味を持つものだそうです。

とすれば、太良未太は、「宮大工」を意味することになります。
  1. 2014/09/23(火) 09:21:56|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百十六)

ところで、朝日日本歴史人物事典を「太良未太」で索引すると、次の解説があらわれます。

生年: 生没年不詳

6世紀後半,崇峻天皇のころ百済から来た寺院建築の工匠。

『日本書紀』『元興寺縁起』および同縁起に引く露盤銘によると,崇峻1(588)年,百済は仏舎利,僧侶のほか,寺工(寺師)の太良未太(丈羅未大),文賈古子,露盤博士の白昧淳,瓦博士の麻奈文奴,陽貴文,〓貴文,昔麻帝弥,画工の白加,陽古などの人たちを派遣したと伝える。

こうした百済の提供した寺院建築の技術者を得て,中国・朝鮮風の瓦葺きの元興寺(法興寺,のちの飛鳥寺)が造営された。発掘調査により,同寺の伽藍配置は高句麗や百済の寺院の例に類似することがわかっている。

太良未太らの一行は百済人であるが,人名の特異な人もおり,ペルシャなどから中国南朝を経て移住していた人が含まれるかもしれない。
  1. 2014/09/22(月) 04:31:02|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百十五)

鑪盤博士については、世界大百科事典に次の記述があります。

【鋳金】より

…原形を鋳物土で作り,これに合わせて外型を作り,この型を一度取り除き,原形を鋳物の厚みだけ削りとって中型とし,外型と合わせて鋳造する方法。《日本書紀》の崇峻天皇元年(588)条に,元興寺起工にあたり百済より将徳白味淳という鑪盤(ろばん)博士が来朝した記事がある。この鑪盤博士は塔の露盤や相輪などを作る,削り中型の技術を身につけた工人と推定される。…
  1. 2014/09/22(月) 03:30:39|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百十四)

この年、百済は使いに合せて、僧惠總(えそう)・令斤(りょうこん)・惠寔(えしょく)らを遣わして、佛舍利を献上しました。

百済国は、恩率首信(おんそつずしん)・德率蓋文(とくそつこうもん)・那率福富味身(なそつふくふみしん)らを遣わして調を献上し、併せて佛舎利と僧聆照律師(りょうしょうりつし)・令威(りょうい)・惠衆(えしゅう)・惠宿(えしゅく)・道嚴(どうごん)・令開(りょうけ)らと、寺大工の太良未太(たらみだ)・文賈古子(もんけこし)・鑪盤博士(ろばんのはかせ)の將德白昧淳(しょうとくはくまいじゅん)・瓦博士(かわらのはかせ)の麻奈文奴(まなもんぬ)・陽貴文(ようくいもん)・㥄貴文(りょうくいもん)・昔麻帝彌(しゃくまたいみ)・畫工(えたくみ)の白加(びゃくか)を奉りました。
  1. 2014/09/21(日) 04:02:05|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百十三)

ここで、如寶を離れます。

ところで、驚くべきことに、飛鳥時代にペルシャ人が来朝していたという説があります。

日本書紀・崇峻天皇元年の条に次の記述がみえます。

「是歲、百濟國遣使幷僧惠總・令斤・惠寔等、獻佛舍利。百濟國遣恩率首信・德率蓋文・那率福富味身等、進調、幷獻佛舍利・僧聆照律師・令威・惠衆・惠宿・道嚴・令開等・寺工太良未太・文賈古子・鑪盤博士將德白昧淳・瓦博士麻奈文奴・陽貴文・㥄貴文・昔麻帝彌・畫工白加。」
  1. 2014/09/21(日) 02:49:44|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百十二)

『日本後紀』巻廿四に如宝の卒伝がみえます。

少僧都傳燈大法師位如寳卒。大唐人。不知何姓。固持戒律。無有缺犯。至於咒願。天下絶疇。局量宏遠。有大國之風。能堪一代之壇師者也。

唐招提寺はあくまでも私寺ですから、如寶は資金調達に奔走しました。

そればかりではなく、金堂の設計や仏像の制作など多岐に亘って関与しています。

しかも、人格は高潔で、その態度は生涯決してぶれることはありませんでした。

「天下絶疇。局量宏遠。有大國之風」という最大級の賛辞を受けたのも不思議ではありません。

深目,隆鼻の思慮深げな彼の容貌も、それに手を貸していたのかもしれません。
  1. 2014/09/20(土) 19:40:29|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百十一)

承和二年(835)に豊安が現した「招提寺建立縁起」には、「金堂一宇 右少僧都唐如寶。率有縁壇主等、建立如件。」とあります。

金堂の建立時期は、建立縁起と安置された諸仏の造立時期との関連から寶亀年間とされています。

奈良時代に建立された金堂としては、唯一現存するものです。
  1. 2014/09/20(土) 09:09:23|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百十)

如宝は、恩師の死後五十年に及ぶ期間にわたり、唐招提寺の伽藍整備や仏像制作に尽力しました。

如宝の造立とされる建築物では金堂・経楼・鐙楼などが挙げられます、

一方、仏像彫刻では、金堂安置の薬師・党天・帝釈天・四天王像があります。
  1. 2014/09/19(金) 16:35:32|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百九)

法戴は第一回目の渡航から鑑真と行動を共にしている高僧です。

鑑真は、死に臨んで、唐招提寺の全てを彼に託したのではないでしょうか。

嘱師とは、委嘱された高弟という意味合いでしょう。

義静も中国楊州興雲寺で師事していた高弟の一人です。

受戒して十年足らずの如宝が、三公の一人に選ばれたのは実に括目すべき事実です。
  1. 2014/09/19(金) 16:18:50|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百八)

安然而化とは、「安然として化せり」。

つまり、安らかに息を引き取っていたという意味です。

日本に滞在すること60余年、師の鑑真亡き後、唐招提寺の伽藍の整備に力を尽くしました。

鑑真の死に際する記事が、『招提千歳伝記』の第二祖法戴和尚伝に「太祖臨減、嘱師(法戟)及義静・如宝三公、権紹提衆務。」とあります。
  1. 2014/09/18(木) 21:26:33|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百七)

如宝は、来朝後に東大寺戒明院で受戒しています。

如宝少僧都伝には『弘仁六(815)年正月七日、安然而化。居扶桑六十余年。齢治八旬』とあります。

享年80として逆算すれば、如宝の生年は、天平八年(736)ということになりますから、来朝した天平勝宝五年(753)には、まだ二十歳に満たない青年だったと推定されます。
  1. 2014/09/18(木) 07:33:11|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百六)

もっとも、安如宝の出自については異論があります。

招提千歳伝記(1701:元禄14)義澄撰修の巻上之一 第四祖如宝少僧都伝には、「少僧都 諱如宝 朝鮮国人也 不知何氏」とあります。

したがって、詳細は不明ですが、西域の出身説が有力です。

なお、朝日日本歴史人物事典がいう「安国」とは、ウズベキスタンの都市ブハラの、中国唐代における呼称です。
  1. 2014/09/17(水) 04:00:02|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百五)

安如宝については、「朝日日本歴史人物事典」が次のように記述しています。.

「生年: 生年不詳
没年: 弘仁6.1.7 (815.2.19)
奈良・平安前期の律宗の渡来僧。中央アジアのサマルカンド地方の安国の出身か。優婆塞(俗人)として鑑真に師事し,師に従い天平勝宝6(754)年正月に来日。東大寺戒壇で受戒する。一時下野薬師寺に住したが,鑑真没におよびその委嘱を受け唐招提寺に帰住し,伽藍造営に尽力した。延暦16(797)年律師,大同1(806)年少僧都に任命。『日本後紀』の卒伝によると,戒律を厳守し大国の風格を有していたという。」
  1. 2014/09/17(水) 03:23:34|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百四)

天宝十二年十月十九日戌時に龍興寺より出て江頭に至り、船に乗って下る。時に、廿四人の沙彌(僧)悲泣して走り来て大和上に曰く。

「大和上、今、海東に向かわば重ねて(再び)お目にかかることができません。我らは今、最後に結縁に預らん」と。

すなわち、江邊(川辺)において廿四人の沙彌のために戒を授け、終わって船に乗って下って蘇州の黄洫浦に至る。

相随う弟子は、揚州白塔寺の僧法進、泉州超功寺の僧曇静、台州開元寺の僧思託、揚州興雲寺の僧義静、衢州霊耀寺の僧法載、竇州開元寺の僧法成等の一十四人、藤州通善寺の尼智首等三人、揚州優婆塞潘仙童、(ソグド)の人安如寶、崑崙国の人軍法力、膽波国の人善聴、総て二十四人。
  1. 2014/09/16(火) 08:49:16|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

聖神社(その四百三)

ソグド人は、中央アジアのゼラフシャン川流域地方に住んでいたイラン系の民族です。

ところで、淡海三船が著した【唐大和上東征伝】には、次の記事が見えます。

和上於天寶十二載十月[十]九日戌時,從龍興寺出,至江頭乘舟。下時,有二十四沙彌悲泣[赶]來,白和上言:「大和上今向海東,重[覲]無由我,今者最後請預結緣。」乃於江邊爲二十四沙彌授戒。訖,乘舟下至蘇州黃[泗浦]。相隨弟子:揚州自塔寺僧法進、泉州超功寺僧曇靜、台州開元寺僧思託、揚州興雲寺僧義靜、衢州靈耀寺僧法載、竇州開元寺僧法成等一十四人,藤州通善寺尼智首等三人,楊州優婆塞潘仙童,胡國人安如寶,崑崙國人軍法力,[瞻]波國人善聽,都二十四人。
  1. 2014/09/16(火) 00:07:09|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。