案山子のダンス

戯れに、小説など。照れますな。

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聖神社(その二百四十八)

綱は、背後から現れた鬼に兜を掴まれます。

しかし、綱は動ぜず、太刀を引き抜き、兜の緒を引きちぎって、段から飛び降ります。

「汝知らずや王威をおかす。其の天罰は。遁るまじ」と一喝して太刀で斬りつけます。

鬼は奪った兜を投げ捨て、鉄杖を取り出し、綱に打ってかかります。

暫時の激闘の末、綱はついに鬼の片腕を斬り落としました。

鬼は「時節を待ちて、取り返すべし」と叫んで、空を覆う黒雲の彼方へ消えて行きました。

羅生門の鬼は、茨木童子だといわれています。

そういわれれば、色仕掛けで迫った戻り橋の橋姫とは異なり、いかにも豪快な登場ぶりです。
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  1. 2014/06/30(月) 01:55:46|
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聖神社(その二百四十七)


地     その時馬を乗りはなし。その時馬を乗りはなし。 羅生門の石段にあがり。標の札を取り出だし。段上置きら
んとするに。
      後より兜の錣を掴んで引き留めけれは。
      すはや鬼神と太刀抜き持って。斬らんとするに。取りたる兜の緒をひきちぎって。
      おぼえず段より飛び降りたり。
地    かくて鬼神は怒りをなして。かくて鬼神は怒りをなして。
      持ちたる兜をかっぱと投げ捨てその丈皐門の軒にひとしく両眼月日の如くにて。
      綱をにらんで。立つたりけり。
ワキ   綱は騒がず太刀さしかざし
地     綱は騒がず太刀さしかざし。汝知らずや王威をおかす。其の天罰は。
      遁るまじとてかかりければ。鉄杖を振り上げえいやと打つを
      飛び違いちようどきる斬らて組み付くを。
      払う剣に腕打ち落とされひるむと見えしがわきつじにのぼり。
      虚空をさしてあがりけるを。したい行けども黒雲おほい。
      時節をまちて又取るべしと。
      呼ばはる声もかすかに聞ゆる鬼神よりも恐ろしかりし。
      綱は名をこそ。あげにけれ。

羅生門における綱と鬼神との格闘の場面を宝生流謡曲「羅生門」から引用させていただくと以上のようになります。
  1. 2014/06/30(月) 00:00:50|
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聖神社(その二百四十六)

綱は頼光から印を頂いて、その夜ただちに馬にまたがって、従者もつれずにただ一人。馬を走らせました。

二条の大宮から南に、雨の中を九条表に駒を進ませました。

雨はますます烈しくなり、激しい風が沸き起こり、駒も慄いて立ちすくみ進みません。

ようやく、羅生門にたどり着いた綱は、馬をおり門の石段に上がって印を立て置きました。

そして、帰ろうとした途端、俄に化生の者が現れ、後ろから綱の甲をつかんで引き戻すのです。

これこそ、夜な夜な姿を現すという鬼神でした。

綱はたちまち太刀を振るって斬ってかかれば、鬼神はますます怒り狂います

綱は少しも騒がず、遂に鬼神の腕を斬り落としました。

恐れをなした鬼神は黒雲に隠れ去り、綱の武名はますます天下に鳴り響きました。 
  1. 2014/06/29(日) 04:20:07|
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聖神社(その二百四十五)

またまた、脇道にそれて恐縮ですが、「剣巻」での綱と鬼との戦いは、謡曲『羅生門』では舞台が羅城門に変えられています。

ある日、丹後の国大江山で酒呑童子らを退治して都へ凱旋した源頼光は、その時の面々を館に集めて、酒宴を催しました。

この時、頼光が一同に向って、近頃都で面白い話はないかと尋ねました。

そこで、保昌が、近頃羅生門に夜な夜な鬼が出て人を取るという噂があると語り始めました。

側にいた綱がこれを聞いて王城に近い所に左様なことがある筈がないと反論しました。

やがて、口論が始まり、その挙句、綱がその夜直ちに羅生門に赴くことになりました。
  1. 2014/06/29(日) 04:00:02|
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聖神社(その二百四十四)

ところで、安倍晴明は頼光に「綱は七日の暇を賜りて慎むべし。鬼が手をば能く能く封じ置き給ふべし。祈祷には仁王経を講読せらるべし」と進言しています。

このうち、「七日という期間と仁王経を講読」については、ごくありふれた内容ですが、「鬼が手をば能く能く封じ置き給ふべし。」の部分には眼を魅かれます。

切り取った鬼の腕は,朱の唐櫃に入れて封印されたといいます。

つまり、二重のバリア-が張られたわけです。
  1. 2014/06/28(土) 01:11:46|
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聖神社(その二百四十三)

綱は、仁王経を唱え、「臨兵闘者皆陣列在前」の掛け声とともに九字を切りながら、物忌みを続けたのでしょう。

綱の屋敷には、真言の結界が張り回らされたはずです。

密教では,一定の修法の場所を限って印を結び,真言を唱えて護り浄めることを結界を張るといいます。

このような超自然的なバリア-が鬼から綱を守ったことになります。

養母に化けた鬼が、綱の許しがなければ屋敷に入れなかったのも、無理からぬことです。
  1. 2014/06/28(土) 00:00:50|
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聖神社(その二百四十二)

綱は、仁王経を読称しながら七日の物忌みを続けたわけです。

この「七」という数字は、洋の東西を問わずよく出てくる数字です。

洋の東西を問わず、「七」の数字は良く出てきます。

仏教では、最小の物の単位を、「極微(ごくみ)」というそうです。

一つの極微を中心に上下四方が集まり、七つが集まって「一微塵(いちみじん)」が成立するとされています。

この一微塵が集合して、すべての物が成り立っているといわれています。

因みに、法要での初七日は、亡くなった方が三途の川のほとりに到着する日だとされています。
  1. 2014/06/27(金) 07:27:41|
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聖神社(その二百四十一)

ところで、養母が「さて七日の斎と言ひつるは何事にてありけるぞ」」と綱に問いかける記述がありました。

物の本によれば、斎(いつき)とは 神道で、ものいみ(潔斎)をして神に仕えることを意味します。

養母はまた、「重き慎み」という言葉も用いています。

慎みとは、物忌み。斎戒(さいかい)を意味します。

「いみじき御慎みどもをし給ふしるしにや」と源氏物語(明石〉にも出てきます。

この時代、斎、慎、物忌は同義語として使用されていたようです。
  1. 2014/06/27(金) 06:20:10|
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聖神社(その二百四十)

ところで、物忌みとは、夢見の悪いときや、穢れに触れたとき家にこもるなどして身を慎むことだとされています。

占いが凶と出たときや暦の上の凶日などにも物忌みに入ったようですから、当時の人にとっては日常生活の一部のような感じのそれほど大げさな行事ではなかったようです。

もっとも、今回の綱の場合は、あやしの者を傷つけたのですから、護身の目的が大きい「重要な慎み」だったのでしょう。

「義母」も「扨は重き慎みにてありける」と言っています。
  1. 2014/06/26(木) 03:09:51|
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聖神社(その二百三十九)

ところで、鬼は自分の腕を切り落とした相手の武士が、なぜ源綱だと分かったのでしょう。

綱は七日の物忌みに入っているのですから、この事件はまだ他人の口端には上っていないはずです。

 常磐津・戻橋恋角文字(もどりばしこいのつのもじ)には、次のような描写があります。

『夫は御身の思ひ違ひ斯る名もなき田舎武士、誰が思ひをかけやうぞ
『イエ/\立派なお名故に
『何立派な名とは
『当時内裡を警衛に、都へ登りし源の、頼光朝臣の身内にて、渡辺源氏綱殿故
『ヤ如何致して其名をば
『恋しく思ふ殿御故、とくより存じて居りまする

綱は愛宕山の鬼女に懸想されていたわけです。

愉快ですね。
  1. 2014/06/26(木) 00:00:54|
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聖神社(その二百三十八)

誰もが予想したように、綱を訪ねてきた義母の正体は戻り橋の鬼でした。

それにしても、鬼の事前調査能力には、ただただ舌を巻くばかりです。

綱の生い立ちはいうに及ばず、その律儀な性格まで細大漏らさず行き届いたものです。

無論、容姿だけではなく、話ぶりも声音も義母生き写しの名演技だったのでしょう。

綱がころりと騙されたのも無理からぬ仕儀です。
  1. 2014/06/25(水) 06:43:20|
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聖神社(その二百三十七)

・・母は、繰り返し、繰り返しこれを見て、「ああ、怖しい。鬼の腕というのは、このようなものですか。」と言いながら、そのまま立ち上がると、「これは我が腕なれば、もらっていくぞ。」と言いながら、恐ろしい鬼の姿になって飛び上がり、破風の下を蹴破って、虚ろに光りながら消えていきました。
それ以来、渡辺党では家の屋根造りには破風を立てず、東屋作りにするようになったということです。綱は鬼に腕を取り返されて、七日の物忌を破ることになりましたが、仁王経の力によって特に何ということもありませんでした。この「鬚切」は、鬼の腕を切って後は、「鬼丸」と改名されました。・・
  1. 2014/06/25(水) 03:08:19|
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聖神社(その二百三十六)

・・母、打返し打返しこれを見て、「あな怖しや。鬼の手といふ物はかかる物にてありけるや」と言ひてさし置く様にて、立ちざまに「これは我が手なれば取るぞよ」と言ふままに恐ろしげなる鬼になりて、空に上りて破風の下を蹴破りて虚に光りて失せにけり、それよりして渡辺党の屋造りには破風を立てず、東屋作りにするとかや。綱は鬼に手を取返されて、七日の斎破るといふとも、仁王経の力に依て別の子細なかりけり。この鬚切をば鬼の手切りて後、「鬼丸」と改名す。・・
  1. 2014/06/24(火) 00:22:46|
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聖神社(その二百三十五)

綱が「それはお安いことですが、固く封じているので七日目が過ぎるまでは出来ません。明日暮れてからお目にかけましょう>」と言うと、養母は、「よしよしわかりました。別に今見なくてもなんということもありません。私は次の朝は夜が明けないうちに帰ることにしましょう。」と恨めしい顔で言うので、綱は箱に厳重に封じていた鬼の腕を取り出して養母の前に置きました。
  1. 2014/06/24(火) 00:07:33|
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聖神社(その二百三十四)

・・綱、答へて曰く、「安き事にて侯へども、固く封じて侍れば、七日過ぎでは叶ふまじ、明日暮れて侯はば見参に入れ侯ふべし」母の曰く、「よしよし、さては見ずとても事の欠くべき事ならず。我は又この暁は夜をこめて下るべし」と恨み顔に見えければ、封じたりつる鬼の手を取り出だし、養母の前にぞ置きたりける。・・
  1. 2014/06/23(月) 03:36:04|
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聖神社(その二百三十三)

・・母は喜んでこれまでの事や将来のこと等を話し、「さて七日の物忌というのは何事ですか。」と問うので、隠すほどのことでもないので、綱は有りのままに話しました。

母はこれを聞いて、「それは重い慎ですね。そのようなこととは知らないで恨んだりして、今は後悔しています。ただ、親は子の守りでもあり、別事などよもやありません。鬼の腕というのはどんな物なのか見せてください。」と申されます。・・
  1. 2014/06/23(月) 03:20:54|
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聖神社(その二百三十二)

・・母は悦びて来し方行く末の物語し、「さて七日の斎と言ひつるは何事にてありけるぞ」と問ひければ、隠すべき事ならねばありの儘にぞ語りける。

母これを聞き、「扨は重き慎みにてありけるぞや。左程の事とも知らず恨みけるこそ悔しけれ。さりながら親は守りにてあるなれば別の事はよもあらじ。鬼の手といふなるは何なる物にてあるやらん、見ばや」とこそ申されけれ,・・
  1. 2014/06/22(日) 06:24:05|
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聖神社(その二百三十一)

綱は、父源宛の死後、母方の故郷である摂津西成郡の「渡辺の津」に住み、渡辺源次綱(わたなべ の げんじ つな)と名乗り、渡辺氏の祖となったわけです。

したがって、養母である伯母は、この渡辺から上京してきたことになります。

なお、現在堂島川には「渡辺橋」が架かっていますが、これは、渡辺津の繁栄にちなみ江戸時代につけられた名前です。

渡辺津のあった場所からは若干下流に当たります。
  1. 2014/06/22(日) 06:15:12|
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聖神社(その二百三十)

当社の現在の鎮座地名に「渡辺」が付されているのも、旧鎮座地の地名を移したものと考えられています。

平安の後期、源綱(渡辺綱)は、渡辺津に住んでこの神社を掌り渡辺を名字とし、渡辺氏を起こしました。

その後、綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団に発展し、水軍として日本全国に散らばり、瀬戸内海の水軍の棟梁となりました。
  1. 2014/06/21(土) 01:00:47|
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聖神社(その二百二十九)

大阪市中央区には、坐摩神社(いかすりじんじゃ)が鎮座されています。

船場にある、この古い神は、神功皇后が新羅より帰還の折、淀川南岸の大江、田蓑島に奉祀されたのがその始まりとされています。

この田蓑島は、後の渡辺の地、現在の天満橋の西方、石町附近だとされています。

当社は、「延喜式」に攝津國西成郡の唯一の大社と記されています。

天正10年(1582)豊臣秀吉の大坂築城に当たり替地を命ぜられ、寛永年間現在地(大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺3号)に遷座されました。
  1. 2014/06/21(土) 00:00:03|
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聖神社(その二百二十八)

ところで、綱は「光源氏」のモデルとされる「源融」の玄孫にあたる人物です。

融の孫源仕は武蔵守となり、武蔵国足立郡箕田(現在の埼玉県鴻巣市)に下向しました。

この源仕の孫が渡辺綱です。

箕田は美田とも記したのでしょう。

鴻巣市には現在も「箕田」という地名が残っています。

箕田には、渡辺綱が創建したと伝えられる宝持寺が現存します。
  1. 2014/06/20(金) 05:32:14|
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聖神社(その二百二十七)

・・会いたい恋しいと思うことは親子の中の本当の情です。

最近、立て続けに悪い夢を見たので、心配して渡辺から上洛しましたのに、門の内へも入れられてもらえません。

親と思われていいない我が身で子を恋しいと思うのは空しい気持ちです。」

綱はこの道理に責められ、門を開いて中に入れました。・・
  1. 2014/06/20(金) 00:00:21|
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聖神社(その二百二十六)

・・見ばや見えばやと、恋しと思ふこそ親子の中の欺きなれ。この程打ち続き夢見も悪しく侍れば、覚束なく思はれて、渡辺より上りたれども、門の内へも入れられず。親とも思はれぬ我が身の、子と恋しきこそはかなけれ」
綱は道理に責められて門を開きて入れにけり。・・

ここまで言われては、綱も降参です。
  1. 2014/06/19(木) 01:05:52|
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聖神社(その二百二十五)

・・いつか我が子が成長して、人に勝れたところを示すのを見たい、聞きたいと昼夜願っていました甲斐あって、摂津守様の御身内では、美田源次といえば今や肩を並べる者もありません。

上にも下にも誉められ喜びだけと思いながらも、田舎住まいの遠路の身なれば、いつも上洛することなど叶いませんでした。・・

それにしても、「都鄙遼遠」とは。

当時の女性は、このような固い言葉を日常会話で使ったのでしょうかね。

都鄙とは都市と田舎の意味ですが、当時は都を離れれば摂津の国も田舎扱いだったのてすね。
  1. 2014/06/19(木) 00:17:35|
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聖神社(その二百二十四)

・・いつか我が子の成長して、人に勝れて好からん事を見ばや、聞かばやと思ひつつ、夜昼願ひし甲斐ありて、摂津守殿御内には、美田源次といひつれば、肩を並ぶる者もなし。上にも下にも誉められぬれば、悦(よろこび)とのみこそ思ひつれ都鄙遼遠の路なれば、常に上る事もなし・・

綱は、武蔵国美田の生まれですから、生地に因んで美田源氏と呼ばれていたのです。

「その頃摂津守頼光の内に、綱・公時・貞道・末武とて四天王を仕はれけり。中にも綱は四天王の随一なり。武蔵国の美田といふ所にて生れたりければ、美田源次とぞ申しける。」

  1. 2014/06/18(水) 01:04:15|
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聖神社(その二百二十三)

・・養母はこれを聞くとさめざめと泣いて、「仕方のないことです。しかし、生母が産んだあなた様を受けとって養い育てた気持ちをどのように思われているのでしょうか。

夜も安心して寝られず。私は濡れた所に寝て、乾いた所にはあなた様を置いて、四、五歳になるまでは、強い風にも当てないようにし、」・・・

少々、恩着せがましい感じもしますが、これが世の常の養母の本音なのでしょう。

ともかく、綱の弱点は見事についています。
  1. 2014/06/18(水) 00:05:08|
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聖神社(その二百二十二)

・・母はこれを聞きてさめざめと打泣きて、「力及ばぬ事どもなり。さりながら、和殿を母が生み落ししより請取りて、養ひそだてし志いかばかりと思ふらん。夜とて安く寝ねもせず。濡れたる所に我は臥し、乾ける所に和殿を置き、四つや五つになるまでは、荒き風にも当てじとして、・・・

伯母の大愁嘆場が始まったわけです。

綱の困惑ぶりが眼に見えるようです。
  1. 2014/06/17(火) 01:00:22|
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聖神社(その二百二十一)

・・人をやって様子を伺わせたが、変な様子も無いというので、綱は門の傍まで出て、「思いがけない御訪問ではありますが、七日の物忌を行っている最中で、今日は六日目になります。明日まではどうしても適いませんので、宿にお泊りください。明後日になれば入っていただけましょう。」と綱が言えば、・・

物忌みの最中に、他所から訪れた者と言葉を交わすことは、すでに物忌みを破っているような気もします。

もっとも、綱はこの時点では、伯母と直接顔を合わせてはいません。
  1. 2014/06/17(火) 00:00:44|
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聖神社(その二百二十)

人して言ふは、悪しき様に心得給ふ事もやとて、門の際まで立出でて、「適々の御上りにて侯へども、七日の物忌にて候ふが、今日は六日になりぬ。明日ばかりは如何なる事候ふとも叶ふまじ。宿を召され候ふべし。明後日になりなば、入れ参らせ候ふべし」と申しければ、
  1. 2014/06/16(月) 01:12:18|
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聖神社(その二百十九)

そして、既に六日が過ぎた夕暮れに、綱の宿所の門を叩く音がします。

「何処から来られましたか。」と尋ねると、「私は綱の養母で、渡辺から上洛したものです。」と答えます。

彼の養母というのは、綱の伯母でした。

渡辺というのは、摂津の国渡辺の庄、つまり現在の大阪市中央区(旧東区)にある渡辺党の本拠地です。

物忌み中の綱は、困った立場におかれました。
  1. 2014/06/16(月) 00:00:13|
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