案山子のダンス

戯れに、小説など。照れますな。

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聖神社(その百八十八)

・・鬼は手を切られながら愛宕へぞ飛び行く。さて綱は廻廊より跳り下りて、もとどりに付きたる鬼が手を取りて見れば、雪の貌に引替へて、黒き事限りなし。白毛隙なく生ひ繁り銀の針を立てたるが如くなり。これを持ちて参りたりければ、頼光大きに驚き給ひ、不思議の事なりと思ひ給ひ、・・
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  1. 2014/05/31(土) 00:00:01|
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聖神社(その百八十七)

綱は、北野社の廻廊の屋根に墜落し、事なきを得たのですが、その綱が寄進した石灯籠が北野天満宮の境内には今も姿を留めています。

重要美術品 渡邊綱の燈籠

渡邊綱は平安時代中期の武将源頼光の四天王の一人。大江山の酒吞童子、一条戻り橋での鬼との戦いはつとに有名。
本燈籠の由来はこの一条戻り橋の鬼退治の話に遡る。
「渡邊綱が所用で夜半一条戻り橋にさしかかると、若く美しい女性に深夜のこととて家までおくってほしいと頼まれる。しばらく行くとその女性は恐ろしい鬼の姿となり綱を捕らえて舞い上がり、愛宕山へ連れ去ろう北野天満宮上空にさしかかる。その時、綱は太刀を抜き放ち、綱を掴んでいた鬼の片腕を切り落とし難を逃れる。」
後日、綱はこれも北野天満宮の大神のおかげと神恩を感謝し、この石燈籠を寄進したという。
(案内板から)
  1. 2014/05/31(土) 00:00:00|
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聖神社(その百八十六)

その時女はさっと形相を変え、恐ろしい鬼となり、「わが行くところは愛宕山ぞ」というと、綱の髻をつかんで、西北天へ飛びました。

綱は「髭切」の太刀を抜き、鬼の腕を切り落としますが、北野社の廻廊の屋根に墜落します。
  1. 2014/05/30(金) 01:00:55|
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聖神社(その百八十五)

・・やがて厳しかりし姿を変へて、怖しげなる鬼になりて、「いざ、我が行く処は愛宕山ぞ」と言ふままに、綱がもとどりを掴みて提げて、乾の方へぞ飛び行きける。綱は少しも騒がず件の鬚切をさつと抜き、空様に鬼が手をふつと切る。綱は北野の社の廻廊の星の上にどうと落つ。・・
  1. 2014/05/30(金) 00:19:08|
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聖神社(その百八十四)

「実は、五条あたりにはさして用事はございません。

私の住まいは都の外です。

そこまで、送っていただけませんか。」と、女は申しました。

「承りました。何処なりとも、お住まいまでお送りいたします。」

綱は快諾しました。
  1. 2014/05/29(木) 07:15:44|
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聖神社(その百八十三)

・・「誠には五条わたりにはさしたる用も侯はず。我が住所(すみか)は都の外にて侯ふなり。それ迄送りて給ひなんや」と申しければ、「承り侯ひぬ。何く迄も御座所へ送り進らせ侯ふべし」と言ふを聞きて、・・・
  1. 2014/05/29(木) 00:00:09|
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聖神社(その百八十二)

綱は馬から降りて女をかき抱き馬に乗せ、堀川東岸を南へ走らせました。

やがて、正親町の近くまできたとき、女は振り向いて、綱に頼みました。

なお、平安京の通りには、正親町小路が存在しました。
現在の中立売通りに当たるといわれています。
  1. 2014/05/28(水) 02:30:32|
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聖神社(その百八十一)

綱は、その夜、「一条大宮なる所に、頼光聊か用事ありければ、綱を使者に遣はさる。夜陰に及びければ鬚切を帯かせ、馬に乗せてぞ遣はされた」、その帰り途でした。

綱が腰に帯びた「鬚切」は、現存する名刀です。
  1. 2014/05/28(水) 00:05:19|
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聖神社(その百八十)

・・・綱は急ぎ馬より飛び下り、「御馬に召され侯へ」と言ひければ、「悦しくこそ」と言ふ間に、綱は近く寄つて女房をかき抱きて馬に打乗らせて堀川の東の爪を南の方へ行きけるに、正親町へ今一二段が程打ちも出でぬ所にて、この女房後へ見向きて申しけるは,・・・
  1. 2014/05/27(火) 05:43:01|
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聖神社(その百七十九)

確かに夜陰、この戻り橋に、「齢は二十余りと見える女がいた。肌は雪のように白く、紅梅柄の打衣を着、佩帯の袖に経を持って、ただ一人で南へ向かっていた。」とあれば尋常ではありません。

まさに、「橋姫」そのものです。

その女が、馴れ馴れしく、手を叩いて、「どこへ行かれるのですか。私は五条付近のものですが、深夜で怖いので送っていただけないでしょうか。」と話しかけてきたのです。
  1. 2014/05/27(火) 05:24:17|
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聖神社(その百七十八)

・・・一条堀川の戻橋を渡りける時、東の爪に齢二十余りと見えたる女の、膚は雪の如くにて、誠に姿幽なりけるが、紅梅の打着に守懸け、佩帯(はいたい)の袖に経持ちて、人も具せず、只独り南へ向いてぞ行きける。綱は橋の西の爪を過ぎけるを、はたはたと叩きつつ、「やや、何地へおはする人ぞ。我らは五条わたりに侍り、頻りに夜深けて怖し。送りて給ひなんや」と馴々しげに申しければ・・・
(平家物語・剣の巻)
  1. 2014/05/26(月) 06:01:27|
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聖神社(その百七十七)

一条戻り橋といえば、渡辺綱と鬼の話が有名です。

綱は源頼光の四天王の筆頭です。

渡辺綱がある日、頼光の使いで一条大宮まで行ったときのことです。

帰り道のこと、ちょうど一条戻り橋に差し掛かったところで、女の人に声をかけられます。
  1. 2014/05/26(月) 04:22:20|
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聖神社(その百七十六)

「晴明の妻が式神が屋敷内にいるのを嫌がったため、橋の下の石棺に封じたとされる」という言い伝えは、晴明の恐妻ぶりが伺えてなにやら微笑ましいエピソードです。

もっとも、晴明の妻については、実在の人物かどうかも定かではありません。

しかし、晴明には、その後を受け継いだ息子達がいます。

長男吉平は、晴明を超える地位に上りましたが、雨乞いの儀式では、雷は鳴れども、肝心の雨を呼ぶことはできなかったという、なにやら情けない記録を残しています。

一方、次男吉昌の方は、賀茂保憲の寵愛を受け、陰陽頭にまで上り詰めています。
  1. 2014/05/25(日) 12:12:38|
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聖神社(その百七十五)

「源平盛衰記」奴巻 第十

 一条戻橋と云は、昔安部晴明が天文の淵源を極て、十二神将を仕にけるが、其妻職神の貌に畏ければ、彼十二神を橋の下に咒し置て、用事の時は召仕けり。

是にて吉凶の橋占を尋問ば、必ず職神人の口に移りて善悪を示すと申す。
  1. 2014/05/25(日) 10:53:33|
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聖神社(その百七十四)

話題は飛ぶようですが、一条戻橋は、京都市上京区の堀川に架けられている一条通の橋です。現在の橋は平成7年に架け直されたものですが、一条戻橋の近くにある晴明神社には、それ以前の一条戻橋を実際の部材を使って再現したミニチュアがあります。

「源平盛衰記」には、「この橋は昔、安倍晴明が天文を極め十二神将を使役していたけど、彼の妻は識神(式神)の顔を怖がったので、晴明は十二神将をこの橋の下に呪し置いて、必要な時には召喚して吉凶の橋占いを尋ね問うと、識神は人の口に移って善悪を示した」と記されています。
  1. 2014/05/24(土) 15:35:51|
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聖神社(その百七十三)

問題は、源義家です。

彼は、平安時代後期の武将ですから、時代が50年ほどずれています。

このことは、原文にも出ています。

義家 朝臣(時代不審成)。

それはともかく、八幡太郎義家殿までお出ましとは、実に錚々たる顔ぶれです。
  1. 2014/05/24(土) 10:31:49|
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聖神社(その百七十二)

丹波忠明は、 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説によると、

990-? 平安時代中期の医師。

正暦(しょうりゃく)元年生まれ。丹波重雅の子。権(ごんの)針博士,医博士,典薬頭(てんやくのかみ),侍医兼丹波守などをつとめ,朝臣(あそみ)の姓をさずかる。万寿5年(1028)後一条天皇の病を治療した、とあります。

典薬頭は典薬寮の長官です。

典薬寮は宮廷官人への医療、医療関係者の養成および薬園等の管理を行う機関で、宮内省に属しています。
  1. 2014/05/23(金) 01:00:44|
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聖神社(その百七十一)

観修とは、朝日日本歴史人物事典の解説によると、

生年: 天慶8 (945)
没年: 寛弘5.7.8 (1008.8.11)

平安中期の天台宗の僧。「勧修」とも記す。諡号は智静。長谷大僧正,解脱寺僧正と称される。京都の人。俗姓は志紀氏。勢祐に従い,のちに余慶に受学。法性寺座主職をめぐる円仁系,円珍系門徒の確執のなかで,長谷(京都市左京区)の解脱寺に移り,長徳2(996)年園城寺長吏となる。有験の僧として知られ,死者を蘇生させた伝説を持つ。長保2(1000)年に法務,大僧正となったが翌年に辞職。藤原道長の帰依を受け,道長建立の木幡浄妙寺の別当となった。宋の源清が日本天台に批評を求めて送ってきた5部の著作のうち,『法華示珠指』下巻の批判を担当した、とあります。
  1. 2014/05/23(金) 00:11:47|
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聖神社(その百七十)

ところが、その日も道長は、重い物忌の最中であったのです。

彼は献上品を受け取るべきか迷って、本朝に名を馳せる錚々たる顔ぶれを参篭しているところで、瓜を占わせたのです。

なにしろ、解脱寺の僧正観修、陰陽師安倍晴明、典薬頭丹波忠明、武将源義家という豪華メンバ-です。:
  1. 2014/05/22(木) 01:02:54|
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聖神社(その百六十九)

道長は生涯、邪気に苦しめられた人物です。

そのため、彼は300回を超える方違と物忌を行ったと伝えられています。

五月一日は大安であり、その佳き日のために南都から早瓜が献上されました。
  1. 2014/05/22(木) 00:00:49|
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聖神社(その百六十八)

名声を得た人々の振る舞いとはかくの如きのものです。

由々しいことです。

このことは、どの書物に記されているのかは知りませんが、世に広く伝わっています。
  1. 2014/05/21(水) 08:26:01|
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聖神社(その百六十七)

名を得たる人々の振舞かくのごとし。

ゆゆしかりける事なり。

この事いづれの日記に見えたりと云ふ事知らねども、あまねく申し伝えて侍り。
  1. 2014/05/21(水) 07:27:09|
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聖神社(その百六十六)

その後、瓜は動かなくなりました。

道長公は,義家に瓜を割るようにお命じになりました。

義家が腰刀を抜いて割って見ると,中には小さな蛇がとぐろを巻いていました。

針は蛇の左右の眼に突き刺さっていました。

義家は何気なく瓜を割ったように見えましたが、蛇の頸は断ち切られていました。
  1. 2014/05/20(火) 08:32:33|
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聖神社(その百六十五)

その後、瓜はたらかずなりにけり。

義家に仰せて瓜をわらせられければ、 腰刀 をぬきてわりたれば、中に小蛇わだかまりてありけり。

針は蛇の左右の 眼 に立ちたりけり。

義家なにとなく中をわると見えつれども、蛇の 頸 を切りたりけり。
  1. 2014/05/20(火) 07:07:46|
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聖神社(その百六十四)

加持をなされば、毒気が見えてきましょう、と晴明が申しますので、道長公は,僧正に加持を命じられました。

しばし、僧正が経を称していると、その瓜がむずむずと動き始めました。

そのとき、忠明に毒気を消すようにお命じになりますと、忠明は瓜を取り回し取り回し眺めてから、やおら二箇所に針を突き立てました。
  1. 2014/05/19(月) 09:59:58|
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聖神社(その百六十三)

加持せられば、毒気あらはれ侍るべしと申しければ、僧正に仰せて加持せらるるに、しばし念誦の間に、その瓜はたたき動きけり。

その時、忠明に毒気治すべきよし仰せられければ、瓜をとりまはしとりまはし見て、二ところに針をたててけり。
  1. 2014/05/19(月) 00:34:02|
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聖神社(その百六十二)

物忌み中の藤原道長公の所に、僧の観修、医師の丹波忠明、陰陽師の晴明、武士の源義家が集まっていた時の話です。

ちょうどその時、奈良から早瓜が献上されてきました。

道長公が、「物忌み中にこのような物を、取り入れるのはどうであろうか」と晴明に占ってみるようお命じになりました。

すると晴明は、「瓜の中に毒があります」と言い、たくさんある瓜の中から一つを取り出しました。
  1. 2014/05/18(日) 07:57:28|
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聖神社(その百六十一)

古今著聞集の中に「陰陽師晴明、早瓜に毒気あるを占ふ事」という説話が見られます。

御堂関白殿 御物忌 に、 解脱寺 の 僧正 観修・陰陽師晴明 ・医師 忠明 ・武士 義家 朝臣(時代不審成)参籠して侍りけるに、五月一日、南都より 早瓜 を奉りたりけるに、「御物忌の中に取り入れられん事いかがあるべき」とて、晴明にうらなはせられければ、晴明うらなひて、一つの瓜に毒気候ふよしを申して、一つをとり出したり。


  1. 2014/05/18(日) 07:26:28|
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聖神社(その百六十)

大峯にある髑髏を岩から取り出して、広い場所に置いたならば、必ず治癒いたしましょう。」と言いました。

そして、髑髏のある場所を事細かに指し示しました。

花山天皇が使いを出して調べさせたところ、晴明の言った場所に言った通りの物がありました。

使者はその髑髏を取り出し、しかるべき処に安置しました。

その後、帝は頭痛に悩まされることはなくなりました。
  1. 2014/05/17(土) 08:59:54|
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聖神社(その百五十九)

失敗談もさることながら、晴明はやはり颯爽としていてもらいたいものです。鎌倉初期の説話集で「古事談」という書物があります。

その中に「花山帝の頭痛を癒したこと」という一話が載せられています。

花山天皇は年来の頭痛に悩んでおられました。

特に雨の日はひどく、さまざまな治療を施されましたが、いっこうに効き目はあらわれませんでした。

そこで、晴明をお召しになりました。

晴明は、花山天皇に「帝の前世は、大峯山のある宿で亡くなった尊い行者です。

前世の徳によって、帝として今の世にお生まれになりましたが、前世のお体の髑髏が岩の間に落ちて挟まっているため、

雨の日は岩が膨らみ間がつまるので、今の世でこのように頭痛がされるのです。
  1. 2014/05/17(土) 08:17:57|
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