案山子のダンス

戯れに、小説など。照れますな。

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聖神社(その百二十六)

もう一人の登場人物、播磨の老法師道摩とは、これも言うまでもなく蘆屋道満です。

宇治拾遺物語では、道満が生国へ追い返されたところで終わっていますが、道満は、そこで諦めるような人物ではなかったようです。

彼は、播磨(現在の兵庫県佐用町大木谷)へ帰ってからも、道長の呪殺法を続けました。

清明はその呪詛を阻止するために、佐用にやってきます。
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  1. 2014/04/30(水) 01:00:36|
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聖神社(その百二十五)

御堂関白殿とは、いうまでもなく藤原道長のことです。

この御堂という呼び名は、道長建立にかかる法成寺無量寿院のことを指します。

そのため、彼は法成寺入道とも呼ばれていました。

もっとも、道長は一度も関白には就いていませんから、「御堂関白」は後世付けられた呼び名です。

また、堀川左大臣顕光公とは、藤原 顕光のことです。

彼は、父の藤原兼通が関白になると、昇進して公卿に列しますが、兼通の死後はその弟の兼家、その子道長に実権を奪われてしまいます。

顕光は,朝廷の儀式等で失態を繰り返したため、無能者として謗られ、世間の嘲笑の的となりました。

それでも、晩年には、左大臣に昇進しますが、失意のうちに死去し、道長の家系に祟りをなしたと恐れられ、悪霊左府と呼ばれることとなりました。

  1. 2014/04/30(水) 00:00:47|
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聖神社(その百二十四)

すぐさま、その家の主人である老法師を縛り上げて連れてきました。

呪術を施した 理由を聞かれると、老法師は
「堀川左大臣顕光公に依頼されていたしました」
 と白状しました。

「この上は流罪にすべきであるが、道摩の罪ではない」
 と言い、
「今後、二度とこの様な事はしてはならぬぞ」
 と戒め、生国播磨へ追放されました。

この顕光公は死後怨霊となって、御堂殿あたりへ祟られました。

悪霊左府と呼ばれたと か。
 
御堂関白殿はその犬をいよいよ大切に可愛がられたということです。

  1. 2014/04/29(火) 01:00:52|
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聖神社(その百二十三)

すなはち、家主、老法師にてありける、からめ取りて参りたり。呪咀の故を問はるるに、「堀川左大臣顕光公のかたらひをえてつかうまつりたり」とぞ申しける。「このうへは、流罪すべけれども、道魔がとがにはあらず」とて、「向後、かかるわざすべからず」とて、本国播磨へ、追ひくだされにけり。
 
この顕光公は、死後に怨霊となりて、御堂殿辺へはたたりをなされけり。悪霊左府となづく云々。犬はいよいよ不便にせさせ給ひけるとなん。
  1. 2014/04/29(火) 00:00:19|
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聖神社(その百二十二)

そこで「こういう事があるのだが、これれは、どういう意味であろうか」とお尋ねになりますと、晴明 はしばらく占ってから、「これは殿をお呪い申し上げる物を道に埋めてあるのです。もし、それをお跨ぎになられた暁には、不吉な事が起こりましょう。犬は神通力を持っているので、それが起こる前に告げてくれていたのです。」と答えました。

「では、それは一体何処に埋めてあるのか。見つけ出して欲しい」
 と仰ると、晴明は、「容易きこと」 と申し上げて、しばらく占った後に、「ここです」と示しました。

そこを掘らせて御覧になると、土を五尺ほど掘ったところで、物が見つかりました。
 
土器を二つ合わせ、黄色い紙縒りで十文字に絡げてあります。開いてみると、中に何か有るわけではなく、辰砂で「一」という文字を土器の底に書いてあるだけでした。

晴明はそれを見て、「この術は私の外に知っている者は有りません。もしかしたら道摩法師の仕業かもしれません。問い質してみましょう」と言って、懐から紙を取りだし、鳥の姿に結んで、呪文と唱えて空へ投げ上げると、たちまち白鷺になって南を指して飛んでいきました。

「この鳥の落ち着くところを見て参れ」と言って従者を走らせると、六条坊門万里小路辺りに、両開きの戸のある古びた家に落ちるように入っていきました。

  1. 2014/04/28(月) 01:00:45|
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聖神社(その百二十一)

「かかることのあるはいかが」と尋ね給ひければ、晴明、しばしうらなひて、申しけるは、「これは君を呪咀し奉りて候ふ物を、みちにうづみて候ふ。御越あらましかば、あしく候ふべき。犬は通力のものにて、つげ申し候ふなり」と申せば、「さて、それはいづくにかうづみたる。あらはせ」と宣へば、「やすく候ふ」と申して、しばしうらなひて、「ここにて候ふ」と申す所を、掘らせて見給ふに、土五尺ばかり掘りたりければ、案のごとく物ありけり。土器を二つうちあはせて、黄なる紙捻にて十文字にからげたり。

開きて見れば、中には物もなし。朱砂にて、一文字を土器のそこに書きたるばかりなり。

「晴明が外には、しりたる者候はず。もし道摩法師や仕りたるらん。糺して見候はん」とて、ふところより紙をとり出し、鳥の姿に引きむすびて、呪を誦しかけて、空へ投げ上げたれば、たちまちに、白鷺になりて、南をさして飛びけり。

「この鳥おちつかん所をみて参れ」とて、下部を走らするに、六篠坊門萬里小路辺に、古りたる家の諸折戸の中へ落ち入りにけり。
  1. 2014/04/28(月) 00:00:41|
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聖神社(その百二十)

今となってみれば昔の事となりますが、御堂関白殿は報奨時を建立なされてからは、毎日御堂にお出かけになられていました。

その当時、白い犬を可愛がって飼っていらっしゃったので、 その犬は、いつも御身離さず御供をしていました。

ある日、いつものように御供をしていましたが、関白殿が門に入ろうとなされますと、この犬が殿の御前に立ちふさがるようにして吠えまわり、中へお入れすまいとしました。

「如何したというのであろうか」と、車から降りて は入ろうとなさいますと、犬は御着物の裾を加えて引き止め申し上げようとしました。

そこで、「きっと何か理由があるに違いない」と踏み台を持ってこさせてそれに腰掛け、晴明の許へ、「急いで参ぜよ」 と使者を遣わされました。晴明は直ぐにやって参りました。

  1. 2014/04/27(日) 01:00:27|
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聖神社(その百十九)

安倍晴明の呪術・占術能力は卓越したものでした。

そのため、彼は公家社会からの信頼を勝ち得ました。

それを示す説話が宇治拾遺物語に残されています。

宇治拾遺物語(巻十四 十)「御堂関白の御犬、晴明等奇特の事」
 
「これも今は昔、御堂關白殿、法成寺を建立し給ひて後は、日ごとに御堂へ参らせ給ひけるに、白き犬を愛してなん飼はせ給ひければ、いつも御身をはなれず御供しけり。ある日例のごとく御供しけるが、門を入らんとし給へば、この犬、御さきにふたがるやうにまはりて、うちへ入れ奉らじとしければ、「なでふ」とて、車よりおりて、入らんとし給へば、御衣のすそをくひて、ひきとどめ申さんとしければ、「いかさま、様ある事ならん」とて、榻を召しよせて、御尻をかけて、晴明に、「きと参れ」と、召しにつかはしたりければ、晴明すなはち参りたり。」

  1. 2014/04/27(日) 00:07:30|
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聖神社(その百十八)

このように、陰陽道の中核は占術であり、陰陽師はそれを生業とする専門家であったのです。

この当時の陰陽道とは、陰陽寮が司る天文道、暦道と並ぶ一分野に過ぎませんでした。

ところが、10世紀になると陰陽道・天文道・暦道いずれも究めた賀茂忠行・賀茂保憲父子が現れます。

忠行・保憲は弟子の安倍晴明に天文道を、保憲の子光栄に暦道を伝えます。

平安末期から中世の陰陽道は、やがて天文道・暦道を完全に取り込むことになります。

つまり、広義の陰陽道・陰陽師が出現することになったのです。
  1. 2014/04/26(土) 01:17:33|
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聖神社(その百十七)

天平寶字元年(757)11月、勅により、陰陽生の学ぶ書物を、「周易」、「新撰陰陽書」、「黃帝金匱」、「五行大義」と定められました。

周易(しゅうえき)とは、易経に記された、爻辞、卦辞、卦画に基づいた占術のことです。

また、「五行大義」とは、「隋」の時代に、蕭吉によって編纂された先秦時代から隋までの五行説を集め、組織的に整理、分類した書物です。

なお、「新撰陰陽書」、「黃帝金匱」の両書は現存しませんが、いずれも「五行大義」と同様に、日時の吉凶禁忌や式占・五行説に関する専門書だといわれています。

  1. 2014/04/26(土) 00:00:10|
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聖神社(その百十六)

話題が変わりますが、陰陽寮生がどのような教科書を使っていたかについては、続日本紀に次の記事があります。

十一月,乙亥朔癸未,敕曰:「如聞:『頃年,諸國博士、醫師,多非其才,託請得選.』非唯損政,亦無益民.自今已後,不得更然.其須講經生者,三經.傳生者,三史.醫生者,大素、甲乙、脈經、本草.針生者,素問、針經、明堂、脈決.天文生者,天官書、漢晉天文志、三色薄讚、韓楊要集.陰陽生者,周易、新撰陰陽書、黃帝金匱、五行大義.曆算生者,漢晉律曆志、大衍曆議、九章、六章、周髀、定天論.並應任用.被任之後,所給公廨一年之分,必應令送本受業師.如此,則有尊師之道終行,教資之業永繼.國家良政,莫要於茲.宜告所司,早令施行.」(続日本紀巻二十・孝謙紀四)

  1. 2014/04/25(金) 01:00:47|
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聖神社(その百十五)

余談になりますが、『二中歴』は鎌倉期初頭の成立とされている当時の貴族や知識人のための百科事典です。

古代逸年号、日本地図、外国語、古将棋等について記されています。

このうち、古代逸年号には、実に興味をそそられます。

歴史学の通説によると、年号は「大化」(645年)が最初のもので、「白雉」(650年)へ続き、その後の断絶を経て、朱鳥(686年)が1年だけ発布され、「大宝」(701年)以後は、現在まで絶えることなく続いている、とされています。

本書によると、それ以前から年号が存在したとする言い伝えがあったことになります。

なお、本書の編纂者は不明です。

  1. 2014/04/25(金) 00:00:30|
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聖神社(その百十四)

宿曜経に基づく占星術を宿曜道と呼びます。

この占星術を生業とする者のことを宿曜師と言います。、

当然のことながら、密教僧を兼ねる者が多く見られました。

やがて、宿曜師は陰陽道の陰陽師と、その道の勢力を二分する勢いとなりました。

応和元年(961)に、法蔵が村上天皇の御本命供の期日を巡って陰陽道の賀茂保憲と論争を行っており、勘文を奉っています。

この法蔵は、『二中歴』には、日本における宿曜道の祖と記されています。
  1. 2014/04/24(木) 01:00:10|
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聖神社(その百十三)

ところで、陰陽道では、星は信仰の対象でした。

そして、占いの対象でもありました。

二十八宿、七曜、北斗七星などが祀られました。

一方、密教の方では、空海・円仁・円珍らが『宿曜経』を日本に請来し、仁観によって深く研究されました。

それによって、宿曜占星術なる占いが日本に定着することになりました。

宿曜経は、正式には「文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経」という恐ろしく長い名前の経典で、文殊菩薩とリシたちが、二十七宿や十二宮、七曜などの天体の動きや曜日の巡りをもとに、日や方角等の吉凶を読み解く方法を説き明かした物だとされています。

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  1. 2014/04/24(木) 00:00:44|
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聖神社(その百十二)

律令制の下では、陰陽道の国家管理が行われ、陰陽師の官職化が諮られました。

また、令により、僧侶が天文や災異瑞祥を説くことが禁じられました。

ところが、平安時代に入り、律令制の枠が弛緩するにしたがって、陰陽道は日本社会全体へと浸透し始めました。

そして、法師陰陽師の手を通じて、広く民間へと広がって行くことになります。

一方、宮廷社会では、怨霊などに怯える天皇や公家たちに、それを回避する方法を示すことによって陰陽道は存在感を発揮しました。

陰陽師は、占術と呪術を駆使して、上層社会に属する人々の私的生活にも介入していきました。
  1. 2014/04/23(水) 01:00:26|
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聖神社(その百十一)

「陰陽博士」は、陰陽寮で、陰陽道を陰陽の教育を担当しました。

また、「暦博士」は、毎年の造暦と改暦、日食の予測、暦生の教育にあたりました。

天文博士は、天文の観測と天文生の教育とに当たりました。

漏刻博士は、守辰丁(時守)を指揮して漏刻の目盛りを見、時刻を知らせることを司りました。

いずれも、律令制における官職です。
  1. 2014/04/23(水) 00:00:15|
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聖神社(その百十)

7世紀後半から8世紀にかけて、わが国の律令制は整備されましたが、この律令に基づく8つの省からなる中央官庁のうち、中務省に陰陽寮が設置されました。

陰陽寮については、世界大百科事典 第2版は、次のように解説しています。

おんみょうりょう【陰陽寮】

「律令制において設置された中務(なかつかさ)省所属の役所で卜筮(ぼくぜい),天文,暦,時刻のことをつかさどった。天武天皇のとき創設され,職員は事務系統に頭・助・允・大属・少属各1人,技術・教官・学生の系統に陰陽師人,陰陽博士1人,陰陽生10人,暦博士1人,暦生10人,天文博士1人,天文生10人,漏刻博士2人,守辰丁20人,使部20人,直丁3人が配属され,730年(天平2)には陰陽3人,暦2人,天文2人の得業生が置かれた。」

  1. 2014/04/22(火) 01:19:44|
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聖神社(その百九)

さらには、推古天皇の御世に、百濟僧觀勒が、曆本および天文地理書ならびに遁甲方術之書を携えて来日したという記録が残っています。

日本書紀巻第二十二

推古十年冬十月、百濟僧觀勒來之、仍貢曆本及天文地理書幷遁甲方術之書也。是時、選書生三四人以俾學習於觀勒矣。陽胡史祖玉陳、習曆法。大友村主高聰、學天文遁甲。山背臣日立、學方術。皆學以成業。

觀勒は、日本における初代僧正であり、天文地理書・元嘉暦の暦本・陰陽五行思想にもとづく遁甲方術・摩登伽経を伝え、聖徳太子をはじめ、選ばれた34名の弟子たちに講じたといわれています。

陽胡史祖玉陳に暦法を、大友村主高聡には天文を、山背臣日立には遁甲方術を授けたとされています。

なお、遁甲とは、方位の吉凶を占う方術のことだといわれています。

  1. 2014/04/22(火) 00:05:33|
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聖神社(その百八)

では、わが国には、この陰陽道は何時頃もたらされたのでしょうか。

朝鮮半島から渡来人によって6世紀ごろ日本に持ち込まれたと考えられています。

「日本書紀」継体天皇7年(513)の条に、百済から五行博士が貢られたという記事があります。

七年夏六月、百濟遣姐彌文貴將軍・洲利卽爾將軍、副穗積臣押山百濟本記云、委意斯移麻岐彌貢五經博士段楊爾、

ここでいう五經博士とは、百済から来朝した段楊爾 (だん-ようにき)のことで、彼は《易経》《書経》《詩経》《礼記(らいき)》《春秋》の五経に通じた学者でした。

任那(みまな)に派遣されていた穂積押山(ほづみの-おしやま)が帰国するときに同行したとされています。
  1. 2014/04/21(月) 01:30:11|
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聖神社(その百七)

古代中国においては、陰陽五行説は、自然科学や博物学、哲学、医学などの広い分野にわたって、その主要な理論として用いられました。

陰陽五行説からの発展したものとして、八卦、四神相応、十干・十二支などがあります。

また、陰陽五行説の実践としては、 四柱推命、漢方医療、鍼灸、風水などが見られます。

古代の中国人は、森羅万象を読み解く手段として、陰陽五行説を自在に使いこなしました。

このような思想と技術が、後世において「陰陽道」と呼ばれるようになったのです。
  1. 2014/04/21(月) 00:00:32|
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聖神社(その百六)

五行説とは、古代中国の自然哲学の思想ですが、西洋の四元素説と比較されることがあります。

万物を構成する5種類の元素は、相互に作用しあい、その生成消滅に依り天地万物は変化するとしています。

さらに、陰陽思想と五行思想が結び付いて生まれた思想のことを陰陽五行思想といいます。

これは、中国の春秋戦国時代ごろに生まれた思想です。

この思想の誕生に依り、中国の自然哲学はより複雑な事象の説明ができるようになりました。
  1. 2014/04/20(日) 01:16:14|
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聖神社(その百五)

さらには、この陰陽・八卦の思想とは別に、「五行説」という思想が生まれました。

全ての物や事象を「 木 (もく)・火 (か)・土 (ど)・金 (ごん)・水 (すい)」という五つの気の動き、すなわち五行に還元するという考えです。

やがて、陰陽・八卦と五行の思想が結合していきます。

その結果、五行は陰陽に分けられます。

すなわち、木の陽と陰が甲・乙。火は丙丁、土は戊己、金は庚申、水は、壬癸 に分けられたのです。

  1. 2014/04/20(日) 00:01:17|
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聖神社(その百四)

八卦(はっか)は、この四象をさらに陰陽に分けたものです。

すなわち、☰乾(けん),☱兌(だ),☲離(り),☳震(しん),☴巽(そん),☵坎(かん),☶艮(ごん),☷坤(こん)の八つをいいます。

つまり、宇宙の全事象がこの8つに分類できるとしたのです。

それぞれ天,沢,火,雷,風,水,山,地を象徴するとされています。
  1. 2014/04/19(土) 01:10:20|
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聖神社(その百三)

陰陽はやがて四象へと進化していきます。

四象とは、陰と陽の組み合わせから出来る「老陽・老陰・少陰・少陽」の4つのことをいいます。

これは、春夏秋冬を指すともいわれています。

つまり、二元から四元へと展開したわけです。

その後、この四元は、八卦を称える易の思想へと進んでいきます。

  1. 2014/04/19(土) 00:18:58|
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聖神社(その百二)

世界を陰陽の二元に還元する思想は古代中国で生まれました。

本来、陰とは日陰、陽とは日当たりの良い場所の意味です。

それが、やがて寒暖の意味に用いられるようになり、気の思想と結びつくようになりました。

気とは、自然界に存在する全ての物質の基本的な構成単位とされています。

そして、全ての変化は気が流動することによって現れる現象だといわれています。

  1. 2014/04/18(金) 01:00:48|
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聖神社(その百一)

そうすると、これは今流に言えば科学です。

天地の法則を知り、それに基づいて時間軸を超えて未来を予測する・・これこそ人類の無限の夢です。

そうです。

陰陽道は、宇宙を貫く普遍の原理と看做されていたのです。

そもそも陰陽とは、万物を生み出す二大要素とされていました。
  1. 2014/04/18(金) 00:00:49|
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聖神社(その百)

それでは、陰陽道とは何か。

すぐ次の疑問に突き当たります。

陰陽道の起源は、紀元前二千年の古代中国に遡ります。

人々は、刻々と変化する自然の驚異を恐れ、何とかしてその動きを予測できないかと考えました。

彼らは自らの生命を護るために、未来を覗きたいと切望したのです。

人々は、万物の根源を突き詰め、万物を原理的、構造的に把握しようと試みました、

そして、それを理論的に体系づけられさえすれば、ある種の法則が見出され、次に起こりうる現象を推測できるのではないかと思ったのです。

これが、陰陽道の起源だといわれています。
  1. 2014/04/17(木) 01:00:04|
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聖神社(その九十九)

ところで、陰陽師とはそもそも何者なのでしょうか。

世界大百科事典 第2版には次のように定義されています。

おんみょうじ【陰陽師】

「中国発祥の陰陽道と称する特殊な方術の占法をもってすべての吉凶災福を察知し,これに処するための呪術作法を行う宗教家で,方士,方術士,方伎士などとも呼ばれる。官僚としては684年(天武13)2月,新都選定の卜占に派遣された記事が初見で,律令制下では陰陽寮に6人の定員がおかれ占筮相地等をなし,地方では大宰府はじめ東海・東山・山陰・西海各道や陸奥鎮守府に配置された。平安時代,民間では播磨国に海賊を呪縛した智徳なる名人をはじめ法師陰陽師の活躍がみられたし,京都一条堀川の戻橋辺では陰陽師団が斯道の達人安倍晴明にゆかりの伝承を説き,みずからを権威づけるところがあった。 」

  1. 2014/04/17(木) 00:00:36|
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聖神社(その九十八)

それを聞いた晴明は、「これをお聞きなさい。夕べ、私が見つけなかったら、貴方の方がこの陰陽師のようになっていたことでしょうよ。」と言って、その使いに人を付けて遣って様子を聞くと、「陰陽師は、間もなく死にました」ということでした。

舅は、式を打たせた婿をやがて追い出してしまったといいます。

晴明に対しては、涙を流しながら喜んで、多くの謝礼をして、それでも感謝しきれないほどでした。

少将とは誰のことか覚えていませんが、何でも大納言にまで昇進したということです。
  1. 2014/04/16(水) 01:38:51|
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聖神社(その九十七)

それゆえ、その少将は死ぬはずでしたが、晴明が見つけ、一晩中祈ったので、式を打った陰陽師のところから人がやって来て大声で申しました。

「正気を失っていたため、理由も無く、強い守護のある方に対して、仰せに背くまいと思って式を打ってしまいましたが、もはや式神は帰って来て、自分が唯今式に打たれて死にます。酷いことを致しまして。」

  1. 2014/04/16(水) 00:03:41|
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