案山子のダンス

戯れに、小説など。照れますな。

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聖神社(その六十六)

稲荷大社の起源については、伝承が入り乱れています。

年中行事秘抄に、「くだんの社、立ち初めの由、たしかなる所見無し」とあるように、はっきりとした起源は不詳です。

なお、年中行事秘抄とは、朝廷の年中行事儀式について記した公事の書物で、行事の意義,起源をはじめ,先例故実を古書より引用,抄録しています。

鎌倉時代の作です。

稲荷大社の社家は、秦氏系と荷田氏系がありますが、それぞれの氏族の稲荷社起源伝承を持っているようです。

伏見稲荷大社のWebsiteには、「伊奈利社ご鎮座説話」と題する次の文章が載っています。


稲荷大神のご鎮座に関する最も古い記録とされているのは、『山城国風土記逸文伊奈利社条』です。これにはまだ和銅4年(711)云々というご鎮座年代は出てきていません。しかし「秦中家忌寸《はたのなかつえ いみき》等遠祖伊呂巨(具)秦公」の時代に、彼が「積二稲梁一有二冨祐一」であったところから「用レ餅為レ的」したところ、それが「白鳥」と化して山の峰に飛んでゆき、「生レ子」んだ或いは稲が生じたので、その奇瑞によって「遂為レ社」した、そして「其苗裔悔二先過一而抜二社之木一殖レ家祷レ命也」とあり、「為レ社」した者が「伊呂巨(具)秦公」であったことが明記されています。この伊呂巨(具)について、「稲荷社神主家大西(秦)氏系図」によると、「秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂県主、久治良ノ末子和銅4年2月壬午、稲荷明神鎮座ノ時禰宜トナル、天平神護元年8月8日卒」と記され、先にも述べた通り賀茂県主の子孫と称されています。

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  1. 2014/03/31(月) 01:11:52|
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聖神社(その六十五)

山城国紀伊郡深草に鎮座される稲荷大明神(伏見稲荷大社)の神伝によりますと、「稲荷は即ち土祖神大山祇倉稲魂の三社にして深草山の上に飯を盛りたる如き三の峰あれば飯生の山といふ。飯生の森とも号たり。
人王四十三代元明天皇和銅元戊申年石田臣深草の縣主内舎人押の使として奥州に赴き蝦夷の乱賊を征伐に下る時,此の飯生の社に祈願して遂に蝦夷を平治ぬ。
和銅二巳酉年に御倉上社荷田社田中社を飯生山の麓に祭る。同四辛亥年に飯生を稲荷と書くなり。」とあります。

また、「諸神記」には、和銅四年二月九日倉稲魂神始て伊奈利山に現す。地主神は荷田明神なり。其の地に是を祀る.故に稲荷大明神と号す。」と記されています。

  1. 2014/03/31(月) 00:00:31|
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聖神社(その六十四)

鎌倉時代末の神道書である【類聚神祇本源】には、「専女三狐神」という文字が見られますし、また「新猿楽記」には「伊賀専女」という言葉も載せられているようです。

「新猿楽記」(しんさるごうき)とは、平安時代中期の藤原明衡による作品です。

当時の世相・職業・芸能・文物などが列挙されているこの書物に記されているのですから、伊賀伊勢専女なる言葉は当時の人口に膾炙していたのでしょう。

それにしても、専女と狐、特に伊勢専女と狐との関係は理解の及ばないところです。

ところで、ウカノミタマは、日本神話に登場する穀物神ですが、『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記されています。

そのウカノミタマの別名がタウメミケツで、それを専女三狐神と表記したことから、専女と狐の連想が生じたのだとする説もあります。
  1. 2014/03/30(日) 01:19:11|
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聖神社(その六十三)

伊賀専女には、狐の別名以外に、「仲立ちをする人。仲人。」の意味があります。

これは、「口がうまく人をだますことの多い仲人を狐にたとえたことば。」とされています(学研全訳古語辞典)。

源氏の作者は、この意味で用いています。

ところで、河海抄には、「伊賀伊勢にては白狐を専女御前といふ今神前に白狐を置くは此の縁なり」と記述されているようです。

なお、河海抄とは、室町時代初期に成立した源氏物語の注釈書です。
  1. 2014/03/30(日) 00:16:31|
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聖神社(その六十二)

ところで,辞典をひも解くと、狐の別名として「伊賀専女」という言葉が出てきます。

この単語は、源氏物語東屋6章にも現れます。

「ふりはへさかしらめきて、心しらひのやうに思はれはべらむも、今さらに伊賀専女にや、と慎ましくてなむ」

現代語訳すれば、
「殊更利口ぶって、進んでお取り持ちでもするように思われますのも、今更、伊賀専女(伊賀姥・いがたうめ)の類になりはせぬかと気が 引けます。」というほどの意味でしょうか。
  1. 2014/03/29(土) 01:18:53|
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聖神社(その六十一)

では、何故この「命婦専女」が白狐なのでしょうか。

白狐(びゃっこ、はくこ)とは、文字どおり白い毛色を持った狐です。

稲荷社に祀られている狐の殆どが、この白狐です。

もちろん、狐霊ですから人間の目では見ることはできません。

わが国においては、狐霊には野狐と善狐がいるとされています。

白狐は、この善狐の代表格とされる狐霊です。

聖神社に関係する信太森伝説で、陰陽師安倍晴明の母親とされている狐も白狐です。

  1. 2014/03/29(土) 00:06:56|
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聖神社(その六十)

命婦はこれくらいにして、次は「専女(たうめ)」に移ります。

専女とは年老いた婦人という意味です。

土佐日記一・九に、「翁人(おきなびと)一人、専女(たうめ)一人、あるが中にここちあしみして」という記述があります。

ところが、土佐日記では単に老女の意味に用いられていますが、これが狐の異称でもあるというのですから、ややこしいことになります。

そうすると、「命婦専女」とは年老いた雌狐といった意味になってしまいます。
  1. 2014/03/28(金) 01:08:49|
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聖神社(その五十九)

では、何故稲荷の狐が命婦と呼ばれるようになったのでしょうか。

平安時代に移って、命婦の呼称は宮中での中級の女官の総称となりました。

この変化を受けて、やがて稲荷社の巫女も、そう呼ばれるようになりました。

それが、中世になると稲荷の狐にも転化していったものと思われます。
  1. 2014/03/28(金) 00:00:11|
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聖神社(その五十八)

一般的に『稲荷』と呼ばれる場合は『狐を祀った神社』を想像される方が多数であると思われますが、という一節には苦笑を禁じえませんが、現に伏見稲荷大社の境内、千本鳥居の手前には「白狐社」が鎮座しています。

案内板には、「往古の下社末社であった『阿古町(あこまち)』がその前身で白狐霊を祀る唯一の社殿である。」と記されています。

ご祭神は、命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)で、そのお役目は稲荷大神への取り次ぎとされています。

Wikipediaによると、「命婦(みょうぶ)とは、律令制下の日本において従五位下以上の位階を有する女性、ないし官人の妻の地位を示す称号。 または稲荷狐の異名。」とあります。

  1. 2014/03/27(木) 01:00:19|
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聖神社(その五十七)

愛知県豊川市に妙嚴寺という曹洞宗の寺院があります。

このお寺の通称が、あの「豊川稲荷」です。

当寺のWebsiteには、次のように記されています。

「豐川稲荷は正式名を「宗教法人 豐川閣妙嚴寺」と称し、山号を圓福山とする曹洞宗の寺院です。
一般的に『稲荷』と呼ばれる場合は『狐を祀った神社』を想像される方が多数であると思われますが、当寺でお祀りしておりますのは鎮守・豊川吒枳尼真天(とよかわだきにしんてん)です。
豊川吒枳尼真天が稲穂を荷い、白い狐に跨っておられることからいつしか『豐川稲荷』が通称として広まり、現在に至っております。」
  1. 2014/03/27(木) 00:32:59|
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聖神社(その五十六)

ところで、稲荷大神は、神仏習合により仏教の守護神・茶枳尼天(だきにてん)の垂迹とされました。

荼枳尼天は、仏教の神ですが、本来は、ヒンドゥー教の女鬼に由来します。

「荼枳尼」は梵語のダーキニーを音訳したものです。

白狐に乗る天女の姿で表されるため、別名白晨狐菩薩(びゃくしんこぼさつ)と呼ばれ、狐の精だとされています。

手には稲束、鎌、剣、宝珠等を抱いています。

このことが、一般に稲荷大神と狐が混同された原因の一つを担っているといわれています。

  1. 2014/03/26(水) 01:00:03|
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聖神社(その五十五)

日本では古来、農耕神をまつる習俗がありました。

現に、聖神社のご祭神である聖大神は、穀霊神である大歳神の御子神であられます。

「田の神」とは、その農耕神の民間の呼び名です。

そして、田の近くに塚を築いて,祭場としたものがやがて常設化して、『狐塚』と呼ばれるようになったものと思われます。

後に、そこに稲荷神を勧請して祠としたことが、稲荷信仰が全国的に広がる契機となったものとされています。

  1. 2014/03/26(水) 00:07:23|
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聖神社(その五十四)

狐が棲息していなかったといわれる四国と佐渡島を除いて、狐塚の地名は全国的に分布しています。

この場合の「狐塚」とは、狐神を祀った場所のことを指します。

つまり、柳田説が示すように、このことは狐が田の神のお使いだと考えられていたことに由来するものと思われます。

田の神とは、古から日本の農耕民の間で、稲作の豊穣をもたらすと信じられてきた農耕神のことです。

  1. 2014/03/25(火) 01:00:24|
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聖神社(その五十三)

柳田は、「狐塚の話」の中で次のように述べています

「田の神の祭は半分家の中で、又は田の畔や水口の僅かな盛土の上で、近世は営まれるものが多くなつて居るが、それでも地方によつてはまだ今でも、田に接近した一定の地を画して、常設祭場として居るものがある。塚はさういふ中で一ばん古風に近いもので、それに狐塚といふ如き覚えやすい名を付写したことが、亦一つの重要なる変化過程であり、それが又稲荷の小社の、此の如く国内に充満するに至つたことゝ不可分の関係に在るように、私は考へて居るのである。」
  1. 2014/03/25(火) 00:00:15|
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聖神社(その五十二)

確かに、狐が稲荷神であるとの誤解が一般には広まっていました。

狐塚に稲荷社を建立するなどの動きがそれを如実に示しています。

狐塚とは、本来狐の巣穴のことですから、神社側から見ればにがにがしき限りの仕業と思えたことでしょう。

しかし、民俗学者・柳田国男は、稲荷信仰の中心には狐に対する信仰があり、さらにその基底には田の神信仰があると考えていたようです。

  1. 2014/03/24(月) 01:01:13|
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聖神社(その五十一)

それにしても、狐と稲荷神との混同は、神社側にとっては、迷惑至極のことのようです。

笠間稲荷社のWebsiteには、次のような記述があります。

「いっぱんに『お稲荷さん』と言えばキツネをイメージされる方が多いようです。キツネはあくまで稲荷大神のお使いであって、神さまそのものではありません。稲荷大神にとってキツネは、熊野神社のカラスや八幡神社のハト、氏神さまの狛犬などと同じように『神使(かみのつかい)』『眷属(けんぞく)』などと呼ばれ、神さまのお使いをする霊獣です。
これは中世の時代に、人間が持っている様々な欲望を直接神さまに祈願するのは畏れ多いとして、特別に選ばれた動物を通してお願いすることが行われたことによるものです。」
  1. 2014/03/24(月) 00:04:45|
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聖神社(その五十)

狐は古来、日本人にとって神聖視されてきた動物です。

それは、狐が田畑を荒らす鼠を捕食することによって、穀物神に似た尊敬を受けてきたのです。

もっとも、神そのものとしてではなく、人と神の中間の存在として認識されていたのです。

伏見稲荷大社の主祭神は、宇迦之御魂神です。

迦之御魂神の別名に御饌津神(みけつのかみ)がありますが、この神名が誤って「三狐神」と記され、その当て字が発端となって狐が登場することになったとする説があります。

因みに、『けつ』は狐の古語とされています。

  1. 2014/03/23(日) 01:05:47|
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聖神社(その四十九)

この一万基の鳥居は、その殆どが全国の信者から奉納された鳥居です。

このように、伏見稲荷大社では、商売繁盛の願いが叶ったときに鳥居を奉納する習わしがあるのです。

ところで、稲荷社といえば、『狐』のことに触れないではいられません。

狐は、古くから稲荷大神の眷属といわれてきました。

ここでいう眷属とは「お使い」という意味です。

何故、稲荷と狐が関係付けられたのかについては、多くの説があるようです。
  1. 2014/03/23(日) 00:28:28|
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聖神社(その四十八)

ところで、稲荷社には何故あのように多くの鳥居が並んでいるのでしょうか。

伏見稲荷大社の、本殿から奥社への参道には、千本鳥居と呼ばれる鳥居の列が続いています。

これも、前掲の「よくあるご質問」欄に、
「問、なぜ『お稲荷さん』には鳥居がいっぱいあるの?
答え、願い事が『通る』或いは『通った』御礼の意味から、鳥居を奉納する習慣が江戸時代以降に広がった結果です。現在は約1万基の鳥居がお山の参道全体に並んで立っています。」と記されています。
  1. 2014/03/22(土) 01:19:57|
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聖神社(その四十七)

確かに、朱色は大層目立ちますから、この色が魔除けと言う意味は、そこからイメ-ジされたのかも知れません。

辰砂(しんしゃ)から採れた赤色硫化水銀のことを日本では古来「丹(に)」と呼んでいました。

この硫化水銀の粉を水銀朱といい、生漆と煉ったものが「朱」となります。

現在では、樹脂系の特殊な塗料を使用しているようです。

それに鳥居本体もFRP製で、地震、強風などの衝撃に強いとされています。


  1. 2014/03/22(土) 00:00:29|
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聖神社(その四十六)

話題が聖神社から離れすぎて,我ながら忸怩たる思いですが、脱線ついでに、もう少しお付き合いの程を。

まず、稲荷神社の鳥居が朱い理由は何でしょうか。

前掲した伏見稲荷大社のWebサイトの「よくある質問」欄には、
「問、なぜ『お稲荷さん』は『朱塗り』なの?
答え、朱色は、魔力に対抗する色ともされていて、古代の宮殿や神社仏閣に多く用いられています。当社に限って云えば稲荷大神様のお力の豊穣を表す色と説明されています。ただ、お稲荷さんだけが朱塗りではなく、朱塗りの神社は他にも多くあります。また朱の原材料は水銀=丹です。これは昔から木材の防腐剤として使われてきました。」
とあります。
  1. 2014/03/21(金) 01:00:57|
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聖神社(その四十五)

役所とは、伏見奉行所のことでしょうが、それにしても、稲荷大社の祠官の当惑振りと怒りとが、今でもひしひしと伝わってきそうな一文です。

一子相伝はともかくとして、このようにして分霊された「稲荷社」は全国に広がり、「正一位」は、稲荷社の異名にまでなってしまいました。

明治以後、神階授位の制度は廃止されましたが、現在でも全国の稲荷神社で正一位と冠した奉納の幟籏を目にするには、稲荷神に対する篤い信仰によるものといえます(神社新報 『神道いろは』)。

  1. 2014/03/21(金) 00:15:25|
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聖神社(その四十四)

この照会を受けて、当惑した稲荷大社側は、早速、官五人を含む祠官全員が「一社総集合」を開きました。

そして、次のような回答書を書き、翌日役所に持参しました。

「稲荷大明神正一位神体勧請の儀は(中略)後鳥羽院建久5年(1194)12月2日行幸のみぎり、『当社は五穀衣食の守護神にて、諸人に尊信せしむべきであって、信心の輩がその所々に鎮祭しているのは、当社の分神である。よって本社勧請の神体には“正一位”の神階を書加えて授くべき』旨勅許くだされましたので、その時以降社司たちは伝来の修法をもって、勧請相授けたのです。その修法は一子相伝であって、門弟等へ伝授したようなことはかつてなく、そのためみだりに他所より正一位神体勧請があったのでは、当社は甚ださしつかえると共に迷惑至極でございます。」(稲荷社事実考証記)

  1. 2014/03/20(木) 01:02:19|
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聖神社(その四十三)

稲荷勧請については、伏見稲荷大社のHPに興味を覚える記事が見られます。

「江戸時代の寛政4年(1792)2月、奉行所より『正一位稲荷大明神神体勧請は、本社以外の他所の者が行ってもさしつかえはありますまいか。それというのもこのたび大北山百姓・善四郎という者の藪に、きつねの窟ができているのを見つけて、土御門家弟子・今村頼母という者が、“正一位豊浦稲荷大明神”を勧請して遣わしたということなので、不審に思ってまず本社に様子をうかがう』と当社祠官宛に連絡がありました。」
  1. 2014/03/20(木) 00:00:07|
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聖神社(その四十二)

埼玉県八潮市垳に、桁稲荷神社が鎮座されています。

桁は、「がけ」と読む、所謂難読地名に属します。

当社は、この桁の鎮守として祀られてきた神社です。

当社の内陣には、伏見稲荷大社から発給された「正一位稲荷大明神」の神璽筥が納められています。

この神璽筥の底部には「奉安鎮明和九年(1772)正月城州(山城国)紀伊郡稲荷本宮社務神主従三位秦親盛」との墨書があります。

これは伏見稲荷大社からの正式な分霊の勧請を示す好例です。

  1. 2014/03/19(水) 01:20:11|
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聖神社(その四十一)

由緒中に、白川神祇伯家とあるのは、「白川伯王家」のことであり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家のことです。

この時代になると、神祇官制度は有名無実化し、白川家,吉田家のような私的機関が神号、神階の授位を代わって行っていました。

勿論、勧遷自体は伏見稲荷大社が執り行う神事ですから、白川家はその勧請事務代行に携わったものと思われます。

  1. 2014/03/19(水) 00:10:34|
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聖神社(その四十)

ところで、東京都杉並区阿佐ヶ谷に鎮座される馬橋稲荷社のご由緒によると、
「天保二年卯二月上旬『当村鎮守稲荷官金勧化連名帳馬橋村』によれば当時の住民、大谷佐六他五十三名、連名を以て官金の寄附あり、是を以て京都に使者を向け、白川神祇伯家の御役所に上申し、御神体及び御神号の宣下を乞いし処、天保三年辰正月三日、正一位 足穂稲荷大明神の御神号を賜り、御勧遷の許可ある。ここを以て勧遷の式を厳かに執行せられた、と語り伝えられている。」
とあります。
  1. 2014/03/18(火) 01:38:50|
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聖神社(その三十九)

特に中世以降になると、諸国の神社・神職を支配した吉田家が独自に神階を発行したりするなどの社会的な現象もみられるようになりました。

その吉田家が、諸国の神社に位階,神号などを授けた証状のことを「宗源宣旨」といいます。

吉田家は、卜部氏の流れを汲む堂上家ですが、家祖の吉田兼煕は、唯一神道(吉田神道)を創始し、神祇伯の白川家を押しのけ、全国の神社に対する支配を広げてゆきました。

  1. 2014/03/18(火) 00:00:17|
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聖神社(その三十八)

さらには、律令制の規律の弛緩の影響も見逃せません。

分祀先の神社でも勧請元の神階を勝手に名乗る例が現れるようになりました。

また、本来朝廷がおこなってきた神階の授位を、諸国の国司がその国内の神に仮に位階を贈る例も見られるようになりました。

これを、借位または借叙といいます。
  1. 2014/03/17(月) 01:38:03|
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聖神社(その三十七)

そのわけは、例外として朝廷の許可により勧請される時には、本社と同位の神階が授けられることもあったからです。
 
伏見稲荷大社の場合、建久5年(1194)に後鳥羽天皇の行幸があった際、「本社勧請の神体には『正一位』の神階を書加えて授くべき」旨が勅許されたとされています。

なお、伏見稲荷大社のHPには、次の記載があります。

「建久5年12月2日の後鳥羽天皇の行幸は、祇園社と併せ行われたもので、記録には『稲荷勧請勅許云々』は見出せないのですが、当社祠官の間では、この時に勅許があったという見解が、まさに一子相伝されて来たのです。」
  1. 2014/03/17(月) 00:21:24|
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