案山子のダンス

戯れに、小説など。照れますな。

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蜂田神社(その六十七)

この合祀令の目的の一つに、残存する神社の財制基盤の確立がありました。

一町村に複数の神社が存在する場合には、それを一つにまとめて、その他の神社の財産は、神林を含めて処分し、その利益を以て神職の給与の原資とするとしています。

まず、神社には必ず神職を置き、村社は年に120円以上、無格社は60円以上の報酬を出させることを命じています。

もっとも、兼務者については、村社は60円、無格社は30円まで減ずることができるものとしています。

また、神社には基本財産積立金制度を強制し、村社500円以上、無格社200円以上の現金、またこれに相当する財産を現有蓄積させることにしています。
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  1. 2014/01/31(金) 01:33:52|
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蜂田神社(その六十六)

神社合祀令は、明治39年12月の第1次西園寺内閣において、内務大臣原敬によって出されました。

原則として、一町村に一社を標準としました。

もっとも、地勢および祭祀理由において、特殊な事情があるものや特別の由緒書があるもので維持確実なものは合祀に及ばないという例外を定めています。

その特別の由緒とは、下記の五項目です。。

(1)『延喜式』および『六国史』所載の社、および創立年代がこれに準ずるであろうもの

(2)勅祭社、準勅祭社

(3)皇室の御崇敬があった神社

(4)武門、武将、国造、国司、藩主、領主の崇敬があった神社

(5)祭神が当該地方に功績また縁故がある神社。

なお、勅祭社とは、祭礼に際して天皇により勅使が遣わされる神社のことです。
  1. 2014/01/31(金) 00:05:08|
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蜂田神社(その六十五)

この合祀政策は、明治39年8月10日の勅令第220号「神社寺院仏堂合併跡地の譲与に関する件」に基づいて実施されました。

同勅令を受けて、同月14日の内務省通牒は、「府県社以下神社ノ総数十九万三千有余中由緒ナキ矮小ノ村社無格社夥キニ居リ其ノ数十八万九千余ニ達」するので、その中から「神社ノ体裁備ハラス神職ノ常置ナク祭祀行ハレス崇敬ノ実挙ラサルモノ」を対象として、神社の「設備ヲ完全ナラシムル」と同時に「資産ヲ増加シ、維持ニ困難ナカラシメ」「尊厳ヲ計」るという名目の下に、1村に鎮座する神社を基本的に1社にするという神社の整理を目的に行われました。
  1. 2014/01/30(木) 01:15:03|
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蜂田神社(その六十四)

明治末年に行われた神社合祀策の目的は、一般的には神社の継続的経営を図ることにあったといわれています。

すなわち、神社の数を減らすことより、特定の神社に経費を集中させ、神社の威厳を保させることを意図していました。

さらには、地方公共団体から府県社以下の神社に公費の供進を実現させるためには、財政負担の限度までに、神社の数を減らすことが試みられたのです。
  1. 2014/01/30(木) 00:00:58|
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蜂田神社(その六十三)

申し遅れましたが、蜂田神社の宮入地車は8台です。

八田寺町、堀上町、家原寺町、東堀上、八田南之町、平岡町、八田北町、毛穴町各地区のものです。

これらが被合祀神社の旧鎮座地と合致すればよいのですが、必ずしもそうではないようです。

真に残念なことです。

蜂田神社のご祭神は、 天兒屋根命と菅原道眞公であるとされています。

そうすると、合祀された神社のご祭神たちはどうなったのでしょう。

由緒略記に、合祀祭神名の記載がないのが寂し過ぎます。
  1. 2014/01/29(水) 01:34:15|
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蜂田神社(その六十二)

他の6社の旧所在地については、琴平神社は「八田荘村大字八田寺字道の上」、菅原神社は「八田荘村大字毛穴字宮山」、家原神社は「八田荘村大字家原寺字東山」、稲荷神社が「八田荘村大字家原寺字東山」、八田神社は「八田荘村大字堀上字大明神」、
神明社は「八田荘村大字八田北字奥かいと」となっています。

こう並べて見ますと、略記に記された「久世村の1社」の存在が気になります。

明治22年4月1日、大鳥郡小坂村、八田村、平井村、伏尾村、和田村、東山新田、楢葉新田が合併して大鳥郡久世村が誕生しています。

久世と八田荘は隣接していますから、何かそのへんで混乱が生じているのかもしれません。

今後の研究を待つことにします。

ソ-ス・http://www.geocities.jp/iko_kan2/outori.html
  1. 2014/01/29(水) 00:00:02|
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蜂田神社(その六十一)

ところで、同名の2社、すなわち市杵島神社が挙げられていますが、1社の方の旧所在地は「八田荘村大字八田寺字弁天」であり、他の1社は「八田荘村大字家原寺字東山」となっています。

この地名は,いずれも大正11年代のものです。

明治22年4月1日、大鳥郡家原寺村、平岡村、毛穴村、八田寺村、八田北村、南村、堀上村が合併して、大鳥郡八田荘村が発足しています。

したがって、2社の市杵島神社は、それぞれ旧八田寺村、旧家原寺村の村社であった可能性があります。

市杵島姫命は、日本神話に登場する水の女神ですから、水田耕作の守り神として相応しい方なのかも知れません。
  1. 2014/01/28(火) 05:09:28|
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蜂田神社(その六十)

蜂田神社に合祀された神社群については、略記は詳しく触れていません。

大正11年に刊行された「大阪府全志」によれば、被合祀社は次の8社とされています。

琴平神社、市杵島神社、菅原神社、家原神社、市杵島神社、稲荷神社、八田神社、神明社です。

ご祭神については、琴平神社が琴平大神・住吉四柱神、市杵島神社が市杵島姫神、菅原神社が菅原道真、家原神社が、金山比古命・伊邪那美命・高野大神・高おかみ神・白山比売命・百済王仁、2番目の市杵島神社も同じく市杵島姫神、稲荷神社が保食神、八田神社が天児屋根命、神明社が天照皇大神とされています。
  1. 2014/01/28(火) 03:41:09|
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蜂田神社(その五十九)

前掲の布告により、わが国の近代社格制度が成立したといわれています。

社格とは神社の等級・格式を表したものです。

明治維新前は、神社の社格は、全て延喜式により定められていました。

神祇官から幣帛を受ける神社を官幣社、国司からそれを受ける神社を国幣社と呼んでいました。

幣帛とは、神道の祭祀において神に奉献するもののことをいいます。

さて、近代社格制度の下で、政府は社格を官社と諸社および無格社に大別し、官社と して97社を列格しました。

官社には 官幣の大中小社、国幣の大中小社が あり、官幣社は神祇官が、国幣社は 地方官が祀るものとされました。
また、諸社は、府県社・藩社・郷社・村社とに区別されました。

もっとも、藩社については、同年7月14日の廃藩 置県が行われたため、 実際に藩社に列格された神社はありませんでした。
  1. 2014/01/27(月) 01:38:24|
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蜂田神社(その五十八)

これも略記によりますが、当神社は、「明治政府の神社合祀策によって、明治四十三年(1910)付近の村社六社と無格社二社(八田荘七社、久世一社)を合祀した。」とあります。

ところで、明治政府は、明治4年5月14日に太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」を発令しています。
  
太政官布告第二百三十五
 
官社以下定額及神官職員規則等、別紙ノ通被 仰出候。尤府藩県社・ 郷社ノ分ハ、先達テ差出候明細書ヲ以取調、区別ノ上、追テ神祗官ヨ リ差図ニ可及候条、其節万端処置ノ儀同官ヘ可相伺事。
 
一、神官従来ノ叙爵総テ被止候事。
 
一、官社以下府県社郷社神官、総テ其地方貫属支配タル可ク本籍ノ 儀ハ士族民ノ内適宜ヲ以テ編籍可致事。
  1. 2014/01/27(月) 00:00:10|
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蜂田神社(その五十七)

和泉名所図会に、「延喜式神名帳曰、明神大月次新嘗。和泉國一ノ宮(みや)と賞(しやう)す」とある由緒ある大鳥神社が、その神宮寺の境内の一隅に押し込まれてしまっていれば、宣長でなくても嘆きたくなります。

まさに、「庇を貸して、母屋を取られる」の諺どおりの情景です。

名所図会の挿絵を見ると、神宮寺の五重塔が天空に屹立し、寺院の威容を誇っています。

西林寺の場合は、蜂田神社と並んで、一体どのような風景が醸し出されていたのでしょうか。

是非一度、目にしてみたかったような気がします。

ところで、このような神宮寺の羽振りのよさは、僧侶の傲慢さにも通じ、自然と庶民の反感を買った向きもあることでしょう。

分離令に際して、あっさりと廃寺にされたのも納得できるような気もします。
  1. 2014/01/26(日) 01:07:42|
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蜂田神社(その五十六)

当社の由緒略記には、「近世では神宮寺として西林寺を併有していたが、明治の神仏分離令により西林寺を廃寺とした。」と記されています。

ところで、当時の神宮寺と神社との関係はどのようなものであったのでしょうか。

本居宣長はその著書「玉勝間」の中で、和泉国大鳥神社について、次のように記述しています。 

和泉(ノ)國大鳥(ノ)神社

「和泉志といふふみに、かの國の大鳥(ノ)神社の御事を、しるせるを見るに、慶長中罹(ル)2兵火(ニ)1、元禄中、僧快圓興2建(シテ)神鳳寺(ヲ)於域内(ニ)1、寺隅僅(ニ)存(ス)2小祠(ヲ)1、としるせるを見て、涙もこぼるばかり、かなしくぞおぼゆる、此御社は、神名帳に、大鳥(ノ)郡大鳥(ノ)神社、名神、大、月次新嘗と見え、高き御位をも授(ケ)奉(リ)給へる御社にましますものを、その域《トコロ》をしも、佛どころにしなしたる、まがつひのしわざは、せんすべもなきものなりけり、さて御社は、そのかた隅に、わづかにのこりてましますらんほどよ、詣《マウデ》ては見奉らねど、思ひやり奉るだに、かなしきを、かなしと見奉る人のなきは、いかにぞや、大かた國々に、かゝるたぐひ多かるべきを、今はたま/\、これをかのふみに、見あたりたるまゝに、あまりのなげかはしさにえたへで、かくはおどろかしおくなり、あはれかゝる事に、心ざしあらむ人もがな、」
  1. 2014/01/26(日) 00:00:41|
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蜂田神社(その五十五)

政府は修験自体を排斥したわけではありません。

その何よりの証拠は、明治3年6月29日、修験道は仏教であるという太政官見解が出されていることです。

教導職が設置されたのは明治5年のことですが、その結果、宗教者の中でも教導職に入るもの者と、そうでない者とが二分されました。

僧侶・修験は、その前者に含まれたのです。

なお、教導職とは、大教宣布のために設置された宗教官吏です。

つまり、旧の宗教者の身分的特権は廃止されたため、僧侶は身分ではなく、職業的概念として把握されることになったのです。

したがって、僧侶身分の周辺に存在した、虚無僧・盲僧はその依拠先を失い、廃止の運命を辿りました。
  1. 2014/01/25(土) 01:08:44|
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蜂田神社(その五十四)

 明治五年九月十五日付けで、いわゆる「修験道廃止令」太政官第273号(布)が布達されます。

府県ヘ

修験宗ノ儀、自今被廃止、本山当山羽黒派共従来ノ本寺所轄ノ儘、天台真言ノ両本山ヘ帰入被 仰付候條、各地方官ニ於テ此旨相心得、管内寺院ヘ可相達候事、
 但、将来営生ノ目的等無之ヲ以帰俗出願ノ向ハ始末其状の上、教部省ヘ可申出候事

本通達は、「淫祠邪教」として修験道を排斥する意図のものではなく、修験は本来、七総本山の中の真言宗、天台宗に属するものであるから、そのような手続きを経れば、僧侶として認定するという主旨の布達でした。

すなわち、修験宗に属していた修験は、真言宗、天台宗のいずれかの宗派に属すれば教導職としての地位が得られるとしたのです。
  1. 2014/01/25(土) 00:00:53|
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蜂田神社(その五十三)

寺院を経済的困窮に追い込んだ元凶は、やはり上知令だといえます。

それを具体的な事例に求めると、明治4年の旧松山藩領寺院においては、例えば4町5反9畝24歩の寺領を持つ石手寺は、この時に2町8反3畝16歩減らされて、僅かに1町7反6畝8歩だけが残ったといわれています。

また、太山寺も9町6反2畝1歩の寺領から、残ったのは1町2反6畝23歩だったとされています。

神仏分離の際に、生き残った寺院にしても、この上知令により、その命脈を絶たれた例も多いのではないかと思われます。

是も愛媛の例ですが、あの石鎚信仰で名高い横峰寺も、神仏分離に当たり石鎚神社西遙拝所横峰社となりましたが、結局、明治4年に廃寺となっています。
  1. 2014/01/24(金) 01:41:19|
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蜂田神社(その五十二)

これに引き続き、補足命令・説明命令的な布達が追い討ちをかけるように連発されます。

神仏分離令は、別名神仏判然令と呼ばれるように、一義的には神仏を判然と分離することを目的としていました。

ところが、これに便乗した国学者・儒学者や神官を中心とした勢力が、かねてより幕藩体制を後ろ盾にした僧侶の横暴・堕落に不満を抱いていた民衆の怒りを反仏感情に変質させることに成功しました。

地域により濃淡の差はありましたが、各地で寺院の仏像・仏具の破却・焼却等の過激な運動が頻発する風潮を生み出してしまいました。

政府は、既に神仏分離令による混乱を抑えるため、明治元年6月22日付けで東本願寺、西本願寺、興正寺、仏光寺に対して、続いて同年9月17日付けで専修寺に対して、神仏分離は廃仏段釈に非ざる旨の達を出していますが、騒ぎを抑える目だった効果は現れませんでした。
  1. 2014/01/24(金) 00:57:11|
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蜂田神社(その五十一)

このような状況は、幕藩体制の崩壊し、明治新政府の成立とともに一変してしまいた。

明治政府が近代国家としての出発に際して、王政復古・祭政一致の方針を打ち立てました。

そして、神道の国教化を図るため、その最初の施策として「神仏分離」政策を採ったのです。

そのために政府はまず、慶応4年3月17日付と同月28日付の二つの神祇事務局通達を出し、神道と仏教を厳密に分離することを命令したのです。

このことは、前で詳述しました。
  1. 2014/01/23(木) 01:16:17|
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蜂田神社(その五十)

ここで一度、廃仏毀釈に至るまでの歴史的経緯を整理しておきます。

外来宗教である仏教と日本固有の神への信仰とを融合・合体させようとする風潮が生じたのは、早くも奈良時代のみとです。

平安時代に入ると、日本の神はもともとは仏であっのが、衆生を救うために仮に神の姿となって出現したのだという、いわゆる本地垂迹説が流布するようになりました。

しかし、そうなると外来の仏教が日本古来の神に対して、自然と優越する地位を築いていくことになります。

江戸時代に至ると、仏を戴いた僧侶の立場は強固なものになり、幕藩体制を後ろ盾にして、寺院が、別当寺・神宮寺などと称して神社の管理を合わせて行うことが一般的になりました。
  1. 2014/01/23(木) 00:29:37|
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蜂田神社(その四十九)

明治新政府の最重要課題は、なんと言っても国家財政の確立でした。

そのためには、税収の対象の掘り起しが求められました。

その結果、地租課税のための税収源として、長きにわたって免税特権の恩恵に浴してきた寺社領に矛先が向けられることとなったのです。

経済的基盤を失った寺院は、その内部から崩壊していきました。

僧職に見切りをつけ、神職へと走る者、寺宝や仏像を持ち出す者などが後を絶ちませんでした。
  1. 2014/01/22(水) 01:21:16|
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蜂田神社(その四十八)

上知令は、「現在の境内を除く外」の全ての領地を没収の対象としました。

ところが、「現在の境内」と「それ以外の土地」の範疇が曖昧であったため、混乱が生じました。

明治8年に至ると、第二次上知令ともいうべき「社寺境内外区画取調規則」が通達されました。

同規則は、境内の解釈が曖昧だった社寺の境内範疇を「祭典法要ニ必需ノ場所」と規定し、それ以外の土地は「悉皆上知」すべきことを命じました。

これにより、寺社側の逃げ道はことごとく塞がれ、特に廃仏毀釈の風潮で疲弊していた仏門の家政を一層苦しめる結果を招きました。

廃寺に追い込まれる寺院が続出しました。
  1. 2014/01/22(水) 00:57:48|
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蜂田神社(その四十七)

もともと、寺社の領地は、幕府や諸大名によって安堵されていました。

そのため、朱印地(しゅいんち)および黒印地(こくいんち)と呼ばれていました。

朱印地は、幕府の御朱印が押された朱印状により、黒印地は大名の黒印が押された黒印状により安堵された領地のことをいいます。

では、何故この時期に寺社領の上知(あげち)令が出されたかといえば、それは版籍奉還に関係しています。

版籍奉還とは、明治2年に、諸大名から天皇へ領地(版図)と領民(戸籍)の返還をしたことをいいます。

布達中に、「各藩版籍奉還之末社寺ノミ土地人民私有ノ姿ニ相成不相当ノ事ニ付」とあるように、寺社のみ領地が人民私有のままでは、不相当であるというのが、上知令発布の専らの理由とされています。
  1. 2014/01/21(火) 01:18:51|
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蜂田神社(その四十六)

遡りますが、明治4年1月には、「社寺領上知令」が発せられています。

この布達により、これまで御朱印・墨印等によって保証されていた社寺領は、境内地を除きすべて返上を命じられることになります。


明治4年正月5日太政官布告第4号(社寺上知令)(抄)
 

諸国社寺由緒ノ有無ニ不拘朱印地除地等従前之通被下置候処各藩版籍奉還之末社寺ノミ土地人民私有ノ姿ニ相成不相当ノ事ニ付今度社寺領現在ノ境内地ヲ除ノ外一般上知被仰付追テ相当禄制被相定更ニ廩米ヲ以テ可下賜事
  1. 2014/01/21(火) 00:47:58|
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蜂田神社(その四十五)

無檀とは檀家のないことで、無住とは住職がいない寺院を意味します。

明治政府は、この布達により、諸寺院中、総本寺・本山を除き無檀・無住のものは渾て廃止する方針を表明したのです。

地方では、この布達を受けて、有住無檀の寺や檀家が少なく維持の見込みがたたない寺などについても「寺院廃合取調」を行ったようです。

なお、「地方官に於て夫々廃寺所分之上宗名寺号共詳悉取調教部省江可届出事」とある「教部省」とは、廃藩置県直後の明治5年3月に設置された国民教化・社寺行政機関です。
  1. 2014/01/20(月) 01:51:51|
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蜂田神社(その四十四)

ところで、明治5年には無住の寺院の取り壊しが命じられることになりました。

いわゆる「無檀無住の寺院廃止」の太政官布告がなされたのです。

諸寺院中総本寺本山を除く之外無檀にして無住之向は自今渾て被廃止候条各地方官に於て夫々廃寺所分之上宗名寺号共詳悉取調教部省江可届出事
 
但仏像什器等ハ本寺法類之内最寄寺院ヘ合附為致堂宇建物之儀は最初営造之次第を追ひ官営は公収し私造は其人民所分に可相任官私之別不分明之向は適宜に取計跡地所置之儀ハ総て大蔵省江可伺出候事  
  
壬申十一月 太政官
  1. 2014/01/20(月) 00:08:10|
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蜂田神社(その四十三)

もっとも、福昌寺は、島津氏の菩提寺ということで最期まで破壊から逃れていましたが、島津忠義の妻・暐姫が1869年に亡くなり葬儀を神式で行うことになった際に、遂に取り壊しが行われることが決まりました。

『三国名勝図会』によると、回廊を備えた大伽藍のある南九州屈指の大寺でした。

その最盛期には1500人の僧侶がいたといわれています。

また、フランシスコ・ザビエルの鹿児島滞在中、この福昌寺を宿所としていたことで有名です。
  1. 2014/01/19(日) 01:33:26|
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蜂田神社(その四十二)

薩摩島津藩の廃仏が徹底的であっ理由の一つは、藩主が平田派国学に私淑したことにあります。

また、幕末に薩英戦争を経験したことにより、軍備拡充必要性を痛感したことが原因になっています。

廃寺による寺領の召し上げにより、その財源を確保したいという現実的な目的もあったのです。

そして、前述したように、寺院が所有していた金属類は兵器に改鋳するという副産物も得ていたのです。
  1. 2014/01/19(日) 00:09:31|
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蜂田神社(その四十一)

前掲のように島津氏の菩提寺である福昌寺も、歴代当主らの墓地のみ残して破壊されました。

しかも、残された墓石でさえ戒名を消して、神号を追記されたといいます。

藩内約1600の寺院は全廃され、2966人の僧侶は全員還俗させられました。

廃寺とされた寺院から持ち出された大小の梵鐘あるいは仏像仏具の類は、鋳潰されて武器製造の料に充てられました。
  1. 2014/01/18(土) 01:23:28|
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蜂田神社(その四十)

廃仏の動きは、地域によって自然と温度差がみられました。

水戸藩、長州藩、津和野藩などでは、既に維新以前から神道化の動きがありました。

それが、維新直後の神仏分離・廃仏の魁となりました。

また、薩摩藩では、廃仏毀釈は徹底的に断行され、島津氏の菩提寺までもが破壊されました。

すなわち、菩提寺の玉龍山福昌寺、祈願所の大竜寺も廃寺とされたのです。
  1. 2014/01/18(土) 00:35:42|
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蜂田神社(その三十九)

岩清水八幡宮においても、明治政府の方針に従い、八幡大菩薩を「八幡大神」と改めました。

慶応4年の鳥羽・伏見の戦いでは、石清水八幡宮に幕府軍の陣がしかれました。

そのため、極楽寺など一部の堂宇が焼失しました。

 かつて岩清水八幡宮の境内には、沢山の堂宇や宿坊がありましたが、廃仏毀釈により社領も上知となり、多くの建物は破却されました。

明治3年、官幣大社に列せられ、社号を「男山八幡宮」とされました。
  1. 2014/01/17(金) 06:48:05|
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蜂田神社(その三十八)

古くから代表的な神仏習合の神社である宇佐宮は、大分県下では最も激しい廃仏 毀釈が行われたことで有名です。

弥勒寺の本尊弥勒 菩薩像は 極楽寺 へ、薬師如来像 日光月光菩薩像 不動明王像 愛染明王像 仁王像は 大善寺へ売り飛ばされました。

また、一切経は西光寺へ売却されました。

さらには、鐘楼 経蔵 楼門、祇園社の鎮守などが、それぞれ破壊されました。

明治2年には、神職21名の一斉還俗が見られました。
  1. 2014/01/17(金) 00:29:29|
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