案山子のダンス

戯れに、小説など。照れますな。

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感応寺(その十八)

云うまでもなく、日本の仏教はインドから直接に伝来したものではありません。

中国の仏教が入ってきたものです。

インドで誕生した仏教はやがて北上し、シルクロードを経由して中国へ伝わりました。

その途上でガンダーラに到着したとき、仏教は仏像を持つことになります。

ガンダーラは、現在のアフガニスタン東部からパキスタン北西部にかけて存在した古代王国です。

仏教は当初、偶像を否定していましたが、ガンダーラの地で、ギリシャ文明と遭遇し、仏像を生み出すこととなりました。
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  1. 2013/09/30(月) 08:47:28|
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感応寺(その十七)

鎮宅七十二霊符とは、文字どおり72枚からなる霊符、つまりお札です。

鎮宅とは、家内の安全・招福を祈願するという意味です。

霊符の一枚、一枚にはそれぞれ異なった願いが篭められています。

まず清浄な白紙に丹砂を使って願いごとを朱書し、定められた儀式を行った後に、壁に貼ります。

この祭祀は、道教の星信仰に由来しているといわれています。
  1. 2013/09/29(日) 14:52:57|
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感応寺(その十六)

一般的には、妙見信仰の原型は、道教における北極星・北斗七星信仰だといわれています。

道教では、北極星(北辰)を宇宙の全てを支配する太一神として崇められてきました。

その傍らにある北斗七星は、太一神の乗り物だとされていました。

また、鎮宅七十二霊符という霊符を神格化したといわれる「鎮宅霊符神(ちんたくれいふしん)」は、仏教の場合は妙見菩薩と同一視され、神道では天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と同一視されています。
  1. 2013/09/29(日) 08:53:18|
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感応寺(その十五)

妙見菩薩は、北辰妙見、尊星王などとも呼ばれています。

前にも言いましたが、北極星(または北斗七星)を神格化したものです。

「七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経」という経文の中には、「我れ北辰菩薩、名付けて妙見という。今神呪を説いて諸々の国土を護らん。所作甚だ奇特なり。故に妙見という。」とあります。

「妙見」尊は、仏教だけではなく、儒教。道教、神道の中でも崇拝されています。

我が国では、朝廷において国土守護の神・運命を司る神として崇敬を受けてきました。

中世になると、その信仰は全国に広がりました。

武士社会では、武運長久の守護神として、また庶民の間では、開運・商売繁盛・海上安全・眼病平癒の神様として信仰を集めました。
  1. 2013/09/28(土) 14:30:23|
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感応寺(その十四)

鳩摩羅什(350頃~409)は、インドの貴族の血を引く父と、亀茲国の王族の母との間に生れました。

亀茲国とは、かつて東トルキスタンに存在したオアシス都市国家です。

7歳で出家。

384年、前秦の亀茲国攻略の際に捕らえられ、以後18年間で涼州での生活を余儀なくされました。

その後、長安に迎えられ、訳経に励むことになりました。

そして、法華経・阿弥陀経など35部300巻に及ぶ訳経を行いました。

「法華経」には、古来6種の漢文への訳出がありますが、なかでも、鳩摩羅什が訳した「妙法蓮華経」は圧倒的に流布しました。

この『妙法蓮華経』は、天台大師智顗(538-597)に受け継がれ、わが国でも聖徳太子(574-622)が『妙法蓮華経』を読まれて感銘をうけ、「法華義疏」を著されました。
  1. 2013/09/28(土) 04:32:06|
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感応寺(その十三)

法華経は、インド大乗仏教初期に成立した経典で、すべての仏教テキストのうちでも、もっとも重要な経の一つとされています(日本大百科全書・小学館)。

学説によりますと、法華経は、西暦50年から150年頃に記された、とされています。なお、釈迦の没年については、諸説があり、紀元前544年、紀元前486年、紀元前386年などが挙げられています。

いずれにしても、法華経が作成されたのは、仏滅5、6百年後ということになります。中国への仏教伝来は、1世紀頃と推定されていますが、代表的な大乗仏典である法華経が伝来したのは、5世紀になってからのことだとされています。

インドからシルクロードを経由して、中国に伝えられた仏教経典は漢文に翻訳されました。

その中では、鳩摩羅汁(くまらじゅう)の漢訳した「妙法華経」は広く普及し、その後、天台大師が天台宗を開き、法華経の普及に努められました。
  1. 2013/09/27(金) 16:13:58|
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感応寺(その十二)

日蓮は、示現された妙見菩薩から、法華経行者守護の誓願を受けたと伝えられています。

そして、日蓮は法華経(妙法蓮華経)を釈迦の正しい教えとして選び、「南無妙法蓮華経」の唱題を重視しました。

感応寺の縁起でも、法道仙人が、北の空に向って大乗法華経を誦されますと北辰尊星が眼前に降ってきて、輝く童子の形をとりながら、『仏法甚深の法・法華経を擁護せば衆生の祈る所空しからず』と告げます。

これらのエピソードは、いずれも法華経と北辰妙見菩薩との強い絆を象徴しています。
  1. 2013/09/27(金) 01:53:18|
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感応寺(その十一)

北辰妙見信仰は、主に密教に取り入れられ、妙見供、北斗法、北斗護摩などのさまざまな星供養を生み出しました。

一方、世間では、修行僧や陰陽師などの活動によって信仰は広がっていきました。

江戸期にはいると、「妙見大菩薩実境録」などの書物が盛んに出版され、妙見菩薩の功徳は世間に広く知れ渡ることになりました。

日蓮宗においても、妙見信仰との関係は深く、古くから守護神の一つとして祀られています。

日蓮聖人が建長年間、伊勢間の山常明寺に一百日の沐浴参篭し、伊勢神宮参拝の満願の日に、妙見大菩薩が示現されたという伝説があります。

弟子である日潮上人の日蓮伝記『本化別頭仏祖統紀』には、「妙見大菩薩の示現あり。光明顕奕、最明最勝にして威容儼然たり。」と、日蓮聖人が感動されたたことが記されています。
  1. 2013/09/26(木) 20:33:11|
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感応寺(その十)


北辰妙見信仰というのは、北辰つまり北極星を神格化した信仰です。

北極星といえば、天の北極にあり、一晩中動かない星ということで誰でも知っている星です。

したがって、見かけ上では、すべての星が北極星を中心に運行しているように見えます。

そのため、古代の人々は、この星を畏敬し、特別な扱いをしようとしました.

古代中国でも、この北極星に対する信仰が生まれました。

それが、日本に伝来して北辰妙見信仰となりました。
  1. 2013/09/26(木) 03:58:16|
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感応寺(その九)

さて、当寺の縁起に今一度戻りましょう。

「今は去ること千三百有余年の昔、大化元年(645)に唐の国より法道仙人という大変に徳の高い僧がこの上神谷の地におこしになりました。
太陽が少し西に傾く頃、長福寺という寺より峰づたいにお歩きになってこられたのか大きな松の木の根元に腰を下ろされました。
法道仙人疲れからか、遂うとうととなされました。
夜風にハッと気が付きますとあたりは真っ暗でございます。
天を仰ぐと星が眩しい位にサンサンと輝いております。
あまりの星のきれいさに法道仙人は立ち上り、北の空に向って大乗法華経を誦されますと北辰尊星が眼前に降ってまいりました。
アッと法道仙人、驚きのあまり頭を下げ大地にひれ伏しになられました。
恐る恐る頭を上げますと何と眼前に眩く輝く一童子が立っておりました。
そしてリンリンと響き渡る声でもって『仏法甚深の法・法華経を擁護せば衆生の祈る所空しからず』と言い終えるや、一童子のお姿は閃光の如くかき消えてしまいました。
法道仙人は北辰尊星の霊示を受けて一刀三礼(一度刀を刻むと三度礼拝する)の法を以て御浄刻、開眼されました御尊像がこのお堂に安置されております。」
  1. 2013/09/25(水) 13:29:16|
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感応寺(その八)

江戸時代の鞠つき唄には、「一に生駒の聖天さん、二に上神谷の妙見さん、三に讃岐の金刀比羅さん」と歌われたそうです。

かつては、街道沿いには旅籠もあり、参詣客で賑わった往時の風景が眼に浮かぶ心地です。

感応寺の近くには、小川がせせらぎの音を聞かせています。

大阪狭山市や河内長野市と境を接する丘陵地に,その源を発し、泉が丘の西方で石津川に注ぐ妙見川です。

云うまでもなく、川の名は上神谷の妙見さんに由来します。
  1. 2013/09/25(水) 13:12:31|
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感応寺(その七)

上神谷妙見には、いくつかの参詣道が通じていました。

その一つに、上神谷街道があります。

現在の堺市堺区中安井町3丁から 河内長野市下里町までの16.4km の道程です。

その途中に、上神谷の妙見さん(富蔵の妙見さん)・感応寺があります。

そのため、妙見道とも呼ばれています。

また、河内長野市の西高野街道傍には、今も、「右 上神谷妙見山 二十七丁」と刻まれた道標が残されています。

さらには、美木多上から上神谷の泉田中へ通じる山越えの参詣道の一部が今も残っています。

泉田中の集落に入る最後の坂は逢坂と呼ばれ、峠の上では「右妙見」の道標を眼にすることができます。
  1. 2013/09/25(水) 00:01:11|
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感応寺(その六)

感応寺の往時の盛況ぶりについては、「江戸中期から妙見信仰の盛んな頃は、大阪北部の能勢妙見山・交野市の星田妙見山とともに、大阪の三大妙見山と言われ、大阪や堺だけでなく遠く和歌山や河内などから多くの信者が集まったといい、今も往時の道案内石柱が点在している。」と、堺市設置の案内板は伝えています。

さらに、当寺のリーフレットには、「現存するご寄進帳を調べますと、皆様よくご存じの、紀ノ国屋等の豪商の名前がたくさん記載されております。」、とし記され、江戸期の妙見信仰の繁華を重ねて偲ばせてくれています。

当時は、現世利益を求めた多数の参詣者が、上神谷妙見さんを訪れ、その賑わいは能勢の妙見さんを凌ぐほどだったといわれています。
  1. 2013/09/24(火) 12:02:37|
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感応寺(その五)

錺師というのは、 金・銀・銅などの金属板を加工し、神社仏閣、仏壇、家具、建具などの装飾金具をつくる職人のことをいいます。

錺屋とも呼びますから、藤左衛門なる人物は、この錺職で財をなした堺の親方職人だったのでしょう。

妙国寺の大檀那になったとありますが、ひょっとしたら、このお寺は藤左衛門の得意先でもあったのかもしれません。

なお、大檀那とは、勢力のある檀家のことをいいます。

感応寺・妙見堂が万治元年建立とすれば、この時期は、妙国寺においても祖師堂や三重塔の再建に忙しかったころです。

当時の妙国寺は、藤左衛門をはじめとして、余程の大檀那衆に恵まれていたのでしょう。
  1. 2013/09/24(火) 00:58:18|
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感応寺(その四)

和泉名所図会巻之二に、当寺について次のような描写があります。

「上神谷冨藏(とみくら)村の山中にあり。四方、疊山(でうさん)峨々(がゝ)として、僧坊(そうばう)、寂寥(せきれう)たり。日蓮宗。堺津妙國寺に属す。」

さらに続けて。「年久しく、荒(くはう)廃(はい)に及びしを、堺津妙國寺の日(にち)俊(しゆん)上人、再営(さいゑい)して、経(きやう)宗(しう)の守(しゆ)護(ご)神(じん)とす。」とあります。

堺市設置案内板によりますと、「妙見堂は江戸初期の万治元年(1658)に再建され、このことは『明暦年中泉州堺妙国寺の大檀那となり、万治元年3月16日当寺を建立す。』と記された境内の錺屋藤左衛門の建立碑により明らかであり、当寺は藤左衛門が、妙国寺の世應院日俊上人を導師として開山したものである。」とのことです。
  1. 2013/09/23(月) 11:04:08|
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感応寺(その三)

日本霊異記に次のような説話が載せられています。

卅四 令盜絹衣歸願妙現菩薩修得其絹衣緣
 
紀伊國安諦郡私部寺之前,昔有一家.絹衣,十盜人所取,憑妙見菩薩而祈願之.盜絹賣之木市人也.七日不滿,倏猛風來,厥絹纏鹿,衣褒指南而往,隨主家庭衣得之,乃去天賜焉.買人轉聞,乃知盜衣,當頭匪求.宴嘿弗動也.斯亦奇異事矣.

紀伊の国安諦の郡の私部寺の前に、昔、一つの家ありき。

絹の衣十むらを盗人に取られ、妙見菩薩に憑りて祈り願ひき。

盗みし絹は木の市の人に売る。

七日に満たず、たちまちに猛風来る。

その絹を纏へる鹿、衣を褒げて南を指して往き、主の家の庭に堕して衣を得しめ、すなはち天に去りたまふ。

買へる人転へ聞きて、すなはち盗みし衣なることを知り、当頭きて求めず、宴嘿かにして動かざりき。

これもまた奇異しき事なり。

日本霊異記(正式には『日本国現報善悪霊異記』)は、薬師寺の僧景戒により、弘仁13(822)頃に著わされたものです。

紀伊国安諦郡といえば、現在の和歌山県有田郡辺りですから、9世紀の初頭の時期に、既にこの地にまで妙見信仰が普及していた事実が、この素朴な内容を持つ説話によって証明できます。
  1. 2013/09/23(月) 00:20:01|
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感応寺(その二)

感応寺のご本尊は妙見大菩薩です。

妙見大菩薩は、北斗星を神格化したものといわれています。

妙見信仰は、中国から仏教とともに伝来しました。

この信仰は、古代バビロニアに発する星辰信仰が、その源流とされています。

それが、インドを経由して、中国に伝来して大乗仏教と道教とに習合され、やがて日本に伝えられたようです。

わが国においては、平安時代に九州から近畿地方にかけて、密教の修法の下に盛んに信仰されました。

  1. 2013/09/22(日) 13:55:29|
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感応寺(その一)

堺市南区富蔵には、感応寺という日蓮宗の寺院があります。

感応寺は大化元年(645)に、法道仙人が北極星の霊示を受けて、妙見大菩薩の尊像を安置したのが起こりといわれる古刹です。

山号は妙見山。

地名を被せて「上神谷妙見」と呼ばれていました。

江戸時代には、能勢、交野と並んで、大阪三大妙見の一つとして大勢の信者が参拝しました。
  1. 2013/09/22(日) 07:30:18|
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頼光奉剣塚(その七)

石碑はもう一基残されています。

上部が欠損し、「光武器塚」の四文字が読み取れるだけです。

地元では、古くから「刀塚」と呼ばれていたようです。

おそらく、この碑面には「源頼光武器塚」と刻まれていたものと思われます。

わざわざ「武器」と記されているのは、太刀以外の武具も収められていたことを示しているのでしょうか。

興味がそそられます。
  1. 2013/09/21(土) 22:44:04|
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頼光奉剣塚(その六)

頼光の佩刀で今、一口有名なものがあります。

それは、かつて膝丸(ひざまる)と呼ばれていた刀です。

罪人を試し切りした際に、膝まで切れたというのがこの名の由来とされています。

平安時代に源満仲が作らせたと伝えられる、この源氏累代の宝刀は、源頼光の代に、名を蜘蛛切と改められました。

源頼光の土蜘蛛退治の話は、「平家物語」に次のように記されています。

ある年、頼光が瘧を患って床に伏せていたところ、枕辺に、身長7尺の怪僧が現れ、いきなり縄を放って頼光を絡めとろうとしました。

頼光はひるむことなく、枕もとの膝丸を抜き放ち、切りつけると、その怪しい僧は逃げ去りました。

翌朝、頼光は四天王を引連れ、僧の残した血痕を辿り、北野神社裏手のとある塚に至りました。

そこには全長4尺に余る巨大な土蜘蛛が横たわっていました。

頼光たちは、これを捕らえ、鉄串に刺し通し、川原に晒しました。

頼光の熱病は、まもなく回復しました。

これが、太刀の改名の由来です。

今も、北野天満宮の東向観音寺の境内には、蜘蛛塚と呼ばれる石灯籠の火袋が残されています。

膝丸は現在、北野天満宮に所蔵され、重要文化財に指定されています。
  1. 2013/09/21(土) 10:03:41|
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頼光奉剣塚(その五)

「大阪伝承地誌集成」(三善貞司編著)には、「源知光は、当地に別荘を営み、奥野氏を称した。」と記されています。

さらに「知光が、父が鬼退治に用いたという伝家の宝刀を埋め、供養した塚であると思われる。」とあります。

この記述には、少々疑問があります。

頼光の佩刀「童子切(どうじぎり)」は、平安時代の伯耆国の刀工「安綱」作の大太刀です。大江山の「酒呑童子」の首を切り落としたので、この名がつけられました。

現在、東京国立博物館所蔵の国宝です。

国宝

指定名称:太刀 銘安綱 (名物童子切安綱) 附 絲巻大刀 梨地葵紋散蒔絵大刀箱
伯耆安綱
1口
長80.0 反2.7
平安時代・10~11世紀
  1. 2013/09/20(金) 13:52:11|
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頼光奉剣塚(その四)

一説によれば、知光は、後冷泉天皇の勅によりこの地に下ったとされています。

帝は、知光に法華寺の前身であった熊野神社の守護をお命じになったのだそうです。

当時、この地近辺は、鬼や天狗が跋扈する魑魅魍魎の世界でした。

知光は父より授かった刀を振るって、「鬼ケ平(おにがだいら)」で鬼を退治したと伝えられています。

鬼ケ平とは、鬼人が棲んでいた場所と言う意味ですが、現在の何処に比定すべきかは定かではありません。

知光は、その後、当地の平穏を祈念し、鎮護の印として刀を埋納したとされています。
  1. 2013/09/20(金) 08:35:45|
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頼光奉剣塚(その三)

ところで、法華寺は,永承6年に源頼光の五男知光が西之坊など六坊を建てたことに始まるといわれているそうです(角川日本地名大辞典・旧地名編)。

しかし、頼光の息子として記録が残っているのは、頼国・頼家・頼基・永寿・頼昭だけだといわれています。

しかも、長子の頼国以外の四子については、詳細な事跡は残っていません。

頼光の没年は、治安元年(1021)ですから、永承6年(1051)といえば、頼光没後30年ということになります。

さらに、石碑に刻まれた「応徳2年(1085)8月」は、父頼光が没して64年後の歳月ということになります。

そうすると、知光は、頼光の最晩年の子であり、彼自身も長命に恵まれた人生を送ったことになります。
  1. 2013/09/19(木) 14:26:40|
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頼光奉剣塚(その二)

源 頼光(みなもと の よりみつ)は、鎮守府将軍源満仲の長子で、清和源氏の3代目となる人物です。

源満仲は、国司を務めた摂津国川辺郡多田庄を所領として入部し、郎党を組織して、この地に武士団を形成しました。

そのため、彼らは多田源氏と呼ばれるようになり、頼光はそれを相続することになりました。

ところで、別所には、「法華寺」という高野山真言宗の寺院があります。

そのお寺の灯篭の裏手辺り、ミカンの樹の下に、小さな石碑が建っています。

表面には「応徳二年八月、源頼光奉釼塚 奥野氏源知光納文」と刻まれています。
  1. 2013/09/18(水) 17:07:13|
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頼光奉剣塚(その一)

堺市南区別所のミカン畑の中に、小さな石碑が残されています。

源頼光の刀が一振り埋められたと伝えられる場所が示されているのです。

源頼光といえば、大江山の酒呑童子を退治した英雄として名高い平安時代の武将です。

彼の活躍振りについては、『大江山酒天童子絵巻』と中世に流布された『御伽草子』に詳しく記されています。span>
  1. 2013/09/18(水) 02:04:15|
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法道寺(その六十六)

南北朝時代入ると、南朝の「後村上天皇」の行幸があったと伝えられています。

後村上天皇は、正平9年/文和3年(1354)10月に、河内天野山の金剛寺に行在所(あんざいしょ)を置かれました。

そして、6年間にわたって、そこで政務を摂られました。

その間、当寺への度々の行幸があったと伝えられていますが、二つの寺院の直線距離は僅かに3.9キロ、現在の道のり距離にしても6キロという近さです。

帝の度重なるご参詣もまことに宜なるかなです。

なお、法道寺の境内には、堺市指定保存樹木のイヌマキが生えています。

高さが20メートルに及び見事なものです。

イヌマキの側には石仏や石塔などが安置され、一段と風情を添えています。
  1. 2013/09/17(火) 19:41:57|
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法道寺(その六十五)

話題を変えます。

法道寺には、嵯峨天皇が高野山へ行幸の際に立ち寄られたと伝えられています。

嵯峨天皇は、空海の最大の庇護者として知られた方です。

空海上人が、修禅の道場として高野山の下賜を願い出たのは、弘仁7年(816)6月のことです。

同年7月には、勅許が下されています。

弘仁10年(819)伽藍建立に着手していますから、嵯峨天皇の行幸はそれ以降のことだと思われます。

高野山への参詣道、河内国錦部郡長野村と高野山を結ぶ高野街道から、当寺は程近い位置にあります。

嵯峨天皇が、法道寺へと足を延ばされたのも、もっともなことです。
  1. 2013/09/17(火) 08:43:58|
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法道寺(その六十四)

宗教と性行為とは、本質的に相容れない間柄ではありません。

例えば、聖書においても、箴言 5章18,19節には次のように記されています。

「あなたの水の源が祝福されるように。あなたの若い時の妻と共に歓べ。彼女は愛らしい雌鹿,麗しい山やぎである。その乳房が常にあなたを酔わせるように。その愛によって絶えず陶酔するように」。

神が人間を創造され、それを男性と女性に分けられ、彼らにそれぞれ異なる生殖器を与えられたのであれば、夫婦が互いにそれを用いて歓びを分かち合い、生殖に励むことは、それこそ神の思し召しであるはずです。
  1. 2013/09/16(月) 11:19:17|
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法道寺(その六十三)

真言密教の根本には、「自性清浄」という思想があるとされています。

「自性清浄」とは、生まれつき清浄なことを意味する言葉だといわれています。

人間は生来、汚れた存在ではない、人の本質は清浄なものである、と理趣経は説いているのです。

人は本能を授けられて誕生します。

したがって、その本能自体も本質的には清浄なものであるといえます。

清浄であるべき本能に従って行われる性行為は、またそれも清浄であらねばなりません。

このように、十七清浄句が男女の性行為を肯定しているのも、「自性清浄」と言う基本理念から生じる当然な帰結であると思えます。
  1. 2013/09/15(日) 19:20:07|
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法道寺(その六十二)

このように理趣経は、男女の交わりを、一味一体の清らかなものだと神聖視して、それを菩薩の心と表現しています。

「妙適」とは、先に述べましたように、男女の性交における喜悦を意味する言葉です。

しかし、真言の仏教観からすれば、それに留まらず、「妙適」をより大きな楽しみという意味に解しています。

つまり、「妙適清浄」と現されることによって、それは個と宇宙との仕切りを取り払って、全体として物事を捉える世界観を表現する言葉に転換されていくとしているのです。
  1. 2013/09/14(土) 20:11:50|
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