案山子のダンス

戯れに、小説など。照れますな。

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法道寺(その四十一)

寺号は、江戸時代に、閑谷院長福寺から現在の法道寺に改められています。

8代将軍徳川吉宗の嫡男・長福丸(ながとみまる)が将軍後継となったためと言われています。

長福丸、後の家重が誕生したのは、正徳元年(1711)です。

徳川吉宗が、征夷大将軍の宣旨を受けたのは享保元年(1716)7月18日のことです。

従って、寺号の変更があったのは、この時期の頃だと思えます。

寺側の自発的な意思によるものか、それとも幕府の要請によるものかは判然としませんが、とにかく憚りありとの判断が働いた結果のことでしょう。

もっとも、家重は、元々言語不明瞭でしたが、成長するにつれ飲酒癖が悪化し、一層言語不明瞭になったといわれています。

そのため、吉宗も、この家重を後継者とすることに躊躇いがあり、しかも弟の宗武は聡明であったため、何度も廃嫡を考えたとされています。

しかし、家光の時にも問題となり、結局、家康の遺訓となった「長幼の序」の定めは重く、吉宗は自らは大御所として残り、家重に将軍職を譲りました。
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  1. 2013/08/31(土) 15:17:21|
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法道寺(その四十)

法道寺の山号は鉢峯山ですが、寺名は鉢ヶ峯寺とも呼ばれていました。

山門の吽形金剛力士像胎内納入墨書木札にも、「鉢峯寺」の文字が記されています。

鉢ヶ峯寺村は、かつて大阪府にあった村名です。

明治22年(1889)の町村制により、附近の村と合併して、その名は消え去りました。

もっとも、「鉢ヶ峯寺」は、現在も堺市南区の地名として残されています

鉢ヶ峯の地名は、法道仙人の「空鉢」に由来します。

和泉名所図会には「常つねに鉢はちを虚こ空くうに飛とばして、供くうを受うくる。人ひと、咸みな、奇き也とす。故かるがゆへに、名なを鉢峯はちがみねといふ。」とあります。

なお、伝承によると、仙人がその鉢をこの山に埋めたことが、由来とされています。
  1. 2013/08/31(土) 02:05:22|
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法道寺(その三十九)

阿弥陀三尊(あみださんぞん)は、阿弥陀如来を中尊とし、その左右に左脇侍の観音菩薩と、右脇侍の勢至菩薩を配する三尊形式です。

阿弥陀如来とは、云うまでなく西方浄土の教主で、すべての衆生の救済の誓いを立てた仏様です。

浄土宗・浄土真宗のご本尊としてよく知られた存在です。

脇侍の観音菩薩は、阿弥陀如来の慈悲の分身であり、勢至菩薩は知恵の分身といわれています。

「本作品は、日本に伝来している高麗仏画のなかでも最も古い時代に作られた例に属するものと思われます。平成8年度には、修復をおえて、色鮮やかに蘇りました。」

絹本著色。大きさ166.7センチメートル×88.9センチメートル。(堺市HP)
  1. 2013/08/30(金) 19:48:07|
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法道寺(その三十八)

当寺には、平成6年、堺市指定有形文化財に指定された「阿弥陀三尊図」があります。

これは、わが国に伝来した高麗仏画のうちの一幅です。

高麗(こうらい)は、918年に太祖王建が建国し、1392年まで続いた朝鮮半島の国です。首都は開城に置かれました。

「高麗時代(918から1392年)には、朝鮮半島において仏教が隆盛し、仏教寺院の建立・修復などが盛んにおこなわれ、それにともなって多数の仏画が製作されました。」(堺市HP)
 
現存する高麗仏画はおよそ160点。このうち約130点が日本にあるといわれています。
 
「高麗時代の仏画には、赤・緑を基調とした濃厚な色彩と金泥を多用する点、朱の衣に配された細かい金泥円文、独特な桃色を施した体など、いくつかの特徴がみられます。」(堺市HP)

また、繊細かつ端正な仏の描写や流麗で力強い筆遣いは、高麗仏画の特徴とされています。
  1. 2013/08/30(金) 07:03:47|
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法道寺(その三十七)

16人の尊者のお名前を列挙すると次のようになります。

跋羅駄闍尊者、迦諾迦伐蹉尊者、諾迦跋釐駄尊者、蘇頻陀尊者、諾矩羅尊者、跋陀羅尊者、迦哩尊者、

弗多羅尊者、戎博迦尊者、半諾迦尊者、羅怙羅尊者、那伽犀那尊者、因掲陀尊者、伐那婆斯尊者、阿氏多尊者、

注荼半託迦尊者

尊像は、絹本着色(絹地に彩色を施したもの)16幅に描かれています。

大きさは、各65.9センチメートル×34.9センチメートル。

現在、堺市博物館に寄託されています。(堺市HP)
  1. 2013/08/29(木) 10:50:38|
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法道寺(その三十六)

法道寺所蔵の「十六羅漢像」図は、大正6年(1917)4月5日、重要文化財に指定されています。

堺市のHPには、「法道寺の十六羅漢像は、漢画の系統に属する作品で、宋画の写しと考えられます。
 裏書によれば、建長2年(1250)に描かれ、興国7年(1346)に修復したとありますが、様式的に建長2年までさかのぼるのは難しく、制作年代は今後の検討が必要です。」との記述があります。

羅漢とは、悟りをひらいた高僧のことですが、本来は、人々から布施をうける(応供)資格のある人を意味します。

サンスクリットのarhanの音訳〈阿羅漢〉の略称です。

十六羅漢は、佛法を守護することを誓約した釈迦のお弟子さんたちです。

仏陀入滅後に正法を護持して、衆生救済の責めを負わされた16人のことだといわれています。
  1. 2013/08/29(木) 04:31:04|
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法道寺(その三十五)

法道寺の食堂も、昭和35年(1960)6月9日に重要文化財に指定されています。

「食堂(じきどう)は鎌倉時代後期に建てられ、僧侶が法会のさいに食事などを行った建物です。鎌倉時代の食堂は大阪府下では河内長野市の金剛寺とこの建物のわずかに2棟があるだけで大変貴重な建物です。」(堺市HP)。

この記述にあるように、食堂 は本来、大衆の寝食のための建物です。

古代の大寺院においては主要な建物の一つとされていました。

なお、大衆(だいしゅ)とは、貴族出身でない一般の僧を指します。

しかし、時を経るに従って、食堂は次第に庫裡に移行されてゆき、やがて独立の建物としての存在を失いました。

もっとも、禅宗においては、斎堂という形で残されました。

法道寺食堂
構造・桁行七間 梁間三間 一重 入母屋造 本瓦葺(堺市HP)。

食堂じきどう

鎌倉時代の終わりに建てられた食堂は、僧侶が法会のさいにに食事などを行った場所です。傾きがゆるやかな屋根や柱上の簡素な組物などは、奈良時代以降に日本で展開した建築様式の特徴です。現存する食堂は、全国的にもまれで大変貴重です。 (堺市教育委員会設置案内板)
  1. 2013/08/29(木) 00:19:11|
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法道寺(その三十四)

鎌倉時代には、写実的な仏像彫刻が流行しました。

木造も一木造りではなく、寄木造りが主流となってきました。

これらは、慶派の活動に負うところが多いといえます。

慶派とは、平安時代中盤に興り、鎌倉時代以後には隆盛を極めた佛師集団で、名前の一字に慶を用いているのが特徴です。

法道寺の金剛力士像も、保存修理事業に際して発見された吽形胎内納入墨書木札によると、運慶の流れを引く出雲法橋圓慶(いずもほっきょうえんけい)ら慶派の仏師集団により造像されたことが分かります。

本像も寄木造りで、法量は、阿形 296センチ、吽形 294センチとなっています。

平成13年12月20日、堺市指定有形文化財に指定されています。
  1. 2013/08/28(水) 05:15:33|
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法道寺(その三十三)

樓門

金剛(こんがう)力(りき)士(し)の二天を安す。 (和泉名所図会)

堺市のHPは、法道寺楼門(仁王門)について、次のむように記しています。
「楼門に安置される「金剛力士像」は、解体修理中に吽形(うんぎょう)から発見された墨書木札で、鎌倉時代の弘安6年(1283)に造像されたことがわかり、同時代から室町時代にかけて興隆した法道寺と、上神谷(にわだに)地域の仏教文化の精華を、現在に伝える大変貴重なものです。」

金剛力士像は、門の左右に阿形(あぎょう)・吽形(うんぎょう)の一対で安置されています。

口を開けている「阿形」と、口を閉じている「吽形」の二種の表情は、万物の始まりと終わりを象徴していると言われています。

つまり、梵字の12字母の、初めにある阿と終わりにある吽の2字を、密教では、万物の初めと終わりを象徴するものとみなしているのです。

「阿吽の呼吸」という言葉は、ここから派生したものです。
  1. 2013/08/28(水) 00:02:23|
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法道寺(その三十二)

上層を円形、下層を方形とした塔身の二重塔の仏塔は、わが国で創始されたものです。

このような形式を持った仏塔は中国や朝鮮半島では眼にすることができません。

多宝塔は,外観からは二層に見えますが、実は単層の建物に裳階が付いた構造です。

多宝塔は、「法華経」見宝塔品第十一に出てきます。

見宝塔品には、「世尊(釈迦)が説法をしていらっしゃると、大地から巨大な七宝塔が涌出し、空中に聳え立った。」という説話が見えます。

七宝塔とは、金、銀、瑠璃などの七宝で造られた塔のことです。

この宝塔は過去仏である多宝如来の塔でしたが、塔内におられた多宝如来は釈迦の説く法華経の教えを讃嘆されました。

そして、その正しさを証明して、半座を空け、釈迦とともに並んで座わられたたと説かれています。

「多宝塔」の名称はこの法華経に由来するといわれています。


もっとも、漢訳経文中の用語は「七宝塔」となっており、多宝塔の文字は使われていません。
  1. 2013/08/27(火) 03:22:20|
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法道寺(その三十一)

ニ層(その)塔(たう)

五智(ち)如来を安す。 (和泉名所図会)

堺市のHPによれば「多宝塔(たほうとう)は南北朝時代中期に建てられた安定感のある建物です。建築年代は屋根に葺かれている丸瓦に、正平23年(1368年)に作ったという銘文があり、この時期に建てられたと考えられます。」とあります。

明治35年(1902)に、重要文化財指定の指定を受けています。

五智(ち)如来とは、大日如来を中心とする金剛界の五仏のことです。

すなわち、大日如来、阿閦(あしゅく)如来、宝生(ほうしょう)如来、阿弥陀(あみだ)如来、不空成就(ふくうじょうじゅ)如来の諸仏です。

密教においては、大日如来の五つの知恵を五つの如来に当てて表現したものだといわれています。
  1. 2013/08/27(火) 00:12:35|
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法道寺(その三十)

わが国では、 薬師如来信仰は飛鳥時代に始まりました。

法隆寺の金堂には、薬師如来坐像が安置されています。

用明天皇は、ご自分の病気平癒のため、薬師像と寺塔の建立を発願されましたが、果たすことなく崩御されました。

そ こで、聖徳太子が父用明天皇のご遺志を継いで、推古15年(607)に、薬師像を本尊とする法隆寺を建立されました。

奈良時代に入ると、天武天皇が皇后の病気平癒のため薬師寺建立を発願されますと、薬師如来は、病を治す仏として、その信仰は世間に広まりました

さらに平安時代になると、天台密教、真言密教が盛んになり、薬師如来は、比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺のご本尊としても祀られるようになりました。
  1. 2013/08/26(月) 10:15:29|
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法道寺(その二十九)

薬師如来は、東方浄瑠璃界の教主ですが、これに対比されるのが西方極楽浄土の阿弥陀如来ということになります。

薬師如来は、医薬を司り、衆生の病気を治す仏とされていますから、仏像もしばしば薬壷を持った形で表されています。

もっとも、薬壺を持つようになるのは平安時代以降のことだといわれています。

脇侍は、正面から見て右側には日光菩薩、左側には月光菩薩が控えて居られます。

なお、日光菩薩は慈悲の仏、月光菩薩は智恵の仏とされています。
  1. 2013/08/26(月) 06:39:52|
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法道寺(その二十八)

当寺の伽藍について、和泉名所図会は、次のように記述しています。

金堂(こんだう)
本尊、藥師佛。日光、月光、十二神將を安す。

ニ層(その)塔(たう)
五智(ち)如来を安す。

樓門
金剛(こんがう)力(りき)士(し)の二天を安す。

先ず金堂には、「本尊、藥師佛。日光、月光、十二神將」が安置されているとあります。

薬師如来は、薬壺を手にされ、病気を治す仏様として有名です。

薬師三尊は両脇に日光菩薩、月光菩薩が控えられ、その周囲を十二神将が守護しています。

薬師如来は、東方の浄瑠璃世界という浄土に住まわれています。

そこは、瑠璃を大地として、建物・用具はすべて七宝造りの世界です。

多くの菩薩も住んでおられます。
  1. 2013/08/25(日) 12:43:13|
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法道寺(その二十七)

什寶(じうほう)には「小松内大臣自(じ)筆(ひつ)の経(きやう)」も含まれています。

小松内大臣とは、平清盛の嫡男、平重盛を指します。

左近衛大将、正二位内大臣の位を授けられ、六波羅小松第に居を構えていたことから、小松内大臣と呼ばれました。

六波羅第は、現在の京都市東山区内,北は松原通から南は七条通に及ぶ賀茂川東岸に位置していました。

二十町四方に及ぶ広大な地域の東南小松谷に重盛の小松殿があったと伝えられています。

ところで、和泉名所図会がいう「小松内大臣自筆の経」ですが、これが事実,真筆であるのであれば、たいへん貴重なものであるといえます。

重盛の自筆の写経文としては、厳島神社の平家納経が有名です。

平家納経は、平清盛以下重盛、敦盛、経盛ら平家一門の32人が、おのおの法華経一品、一巻を分って書写した一品経であったといわれています。

しかし、それすらも、全文自筆ではなく、専門の写経生の手が加えられているのではないかとされています。

当寺に所蔵されていたとされている「小松内大臣の納経」が、仮に全文真筆ではないとしても、それなりに珍重すべき宝物であることは間違いありません。
  1. 2013/08/25(日) 00:04:13|
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法道寺(その二十六)

清和天皇の貞観年中、武蔵の国司蔵宗が反乱を起こし、この降伏を祈念するために、比叡山の恵亮和尚が勅命により東国に下りました。

恵亮和尚は深大寺を道場に定めて、逆賊降伏の密教修法を行ない、その平定の功により清和天皇は、その寺を恵亮和尚に賜りました。

恵亮和尚には、大楽大師の諡号が贈られています。

最澄、円仁、恵亮と天台宗の錚々たる高僧たちが相次いで参篭したとすれば、法道寺と天台密教との係わりの深さが伺い知れます。
  1. 2013/08/24(土) 03:43:06|
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法道寺(その二十五)

例の和泉名所図会の法道寺の件に、「什寶(じうほう)には阿(あ)含(ごん)経の添書(そへかき)あり。弘法(こうばう)大師の真蹟(しんせき)也。佛(ぶつ)舎(しや)利(り)十粒(りう)、寶鉢(ほうはち)一箇(こ)、坐具(ざぐ)一牧(まい)、惠(ゑ)亮(りやう)の獨(どく)鈷(こ)、又、弘法(こうばう)大(だい)師(し)真筆(しんひつ)の法華(ほけ)経(きやう)、見寶塔品の初(はじめの)一紙(し)、小松内大臣自(じ)筆(ひつ)の経(きやう)、其外、古(こ)証(しよう)文(もん)制(せい)状(じやう)等、多し。」と記されています。

ここでいう「恵亮」とは、朝日日本歴史人物事典に「平安前期の天台宗僧。生年は一説に延暦21(802)年。信濃国(長野県)水内郡の人。比叡山に入り義真から戒を受け,円澄に従う。定心院十禅師,惣持院十四僧の役を勤め,円仁から三部大法の灌頂を受けた。」とある僧侶のことだと思われます。

独鈷とは、密教で用いる法具ですが、このような物が当寺に秘蔵されていたとしたら、恵亮上人も、この寺で参篭されたのではないかと思われます。
  1. 2013/08/24(土) 02:28:48|
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法道寺(その二十四)

円仁の在唐は、9年半に及びました。

その間の体験、見聞を記した「入唐求法巡礼行記」と題する自筆日記を残しています。

円仁が直接、体験した武宗による会昌の廃仏の状況が記録されており、晩唐の貴重な史料としても高く評価されています。

なお、円仁上人は、「大師号」を最初に授けられた高僧としても知られています。

貞観8年(866)7月、清和天皇より最澄に「伝教」、円仁に「慈覚」の大師号が初めて贈られました。

大師号は、中国で高徳な僧に朝廷から勅賜の形で贈られた尊称です。

わが国も,それに倣ったのです。
  1. 2013/08/23(金) 14:24:08|
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法道寺(その二十三)

円仁が、遣唐使一行に短期留学の僧として加えられたのは、彼が42歳の時でした。

43歳になった836年、円仁たちの遣唐使船は博多港を出発しました。

しかし、暴風に遭い船団は大破し、やむなく渡航は中止されました。

円仁は、3度目の挑戦でようやく唐にたどり着きました。

承和5年(838)、円仁45歳のときです。

ところが、楊州大都督の李徳裕に、請益僧は直ちに帰国せよと命じられます。

円仁は、自らを新羅人だと偽り、そのまま残って揚州、長安など各地で密教や天台学を学びました。

そして、承和14年(847)に560巻あまりの経典をもって帰国することになります。
  1. 2013/08/23(金) 09:37:32|
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法道寺(その二十二)

ては、本題に戻りましょう。

寺伝によると、平安時代前期には空海をはじめ最澄や円仁などがこの寺に参篭されたといわれています。

高野山真言宗系の法道寺に、宗派開祖である空海上人が参篭されたのは、別に不思議ではありませんが、天台宗系の最澄上人や円仁和尚までもが参篭されたとは、現在の常識では何やら違和感を覚えます。

しかし、当寺が宗派を超えた魅力を持つ、格式の高い古刹であったといえば、それまでのことになりますが。

それはともかく、円仁(慈覚大師)というお方は、最後の遣唐使に伴った入唐請益僧として著名な僧侶です。
請益僧(しょうやくそう)とは、一年の短期留学僧のことです。

第十九回遣唐使発遣の勅が下されたのは、西暦804年、平安時代の初期に当たる時期のことです。
  1. 2013/08/22(木) 15:00:18|
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法道寺(その二十一)

俵が宙を駆ける説話は、法華山一乗寺にまつわる法道仙人伝説にも登場します。

大化元年、瀬戸の海を東へ向かって航海していた一艘の船に、法道仙人の鉢が舞い降りてきました。

船頭は、その鉢に向かって言いました。

「これは、税として都へ運ぶ庸米です。私の一存で勝手に差し上げることはできません。」

鉢はその言葉に納得したのか、空のまま飛び去っていきました。

ところが、異変が起こりました。

船に積んであった米俵が鉢の後を追うようにして次々と飛び上がっていくではありませんか。

仰天した船頭は、慌てて舳先をかえして、雁の群れのように飛びさる米俵を追いかけました。

鉢と米俵は空を飛んで、法華山までやってきました。

あとを追いかけてきた船頭は、船を飛び降りると、息せき切って法道仙人の庵に駆けつけました。

わけを話して、米俵を返してくれるように頼み込む船頭に、法道仙人は笑って許し、もう一度米俵を飛ばして船に戻してやったということです。

それにしても、この事態は、編隊長である護法童子の意向に、部下の童子たちが見当違いの気を利かせすぎた余りの勇み足なんでしょうか。

もしそれが本当なら、法道仙人が苦笑いをされるのも無理はありません。

「飛鉢伝説」は、全国各地で耳にすることができますが、どうやらこの法道仙人伝説が元ネタのようです。
  1. 2013/08/22(木) 00:28:02|
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法道寺(その二十)

山に籠って修行に勤め、いずれ開山をするような高僧には、その山の神が護法童子に姿を変え、高僧の使役霊になるといわれています。

飛鉢の法は、鉢そのものが飛行するのではなく、護法童子が鉢を抱えて飛んでいるのだと思われます。

護法童子の姿は、常人の眼には映りません。

そのため、人々には鉢が空を飛行しているように見えるのです。

俵が次々と飛びたったのも、俵を抱えた大勢の童子が、編隊を組んで空を駆けたのかも知れません。
  1. 2013/08/21(水) 14:49:55|
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法道寺(その十九)

それでは、説話の後半の部分を駆け足で辿ってみましょう。

・・そして、見れば、倉はどんどん飛んで行き、河内国の、この聖が修行をしている山の中へと飛び込み、聖の坊の傍らにドスンと落ちたのです。

それを見て、長者は「なんともあきれたものだ。」と思いながらも、このまま放っておけないので、法師のところへ行って、言い訳を始めました。

「この鉢がいつもやって来るので、いつも喜捨物を入れてあげていたのですが、今回は、用を足す間に紛れてしまい、倉に置いたのを忘れて取り出さずに鍵をかけたところ、この倉がぐらぐら揺れたと思ったら、ここまで飛んで来て落ちたのです。」

とにかく、倉を返してください、と長者は頼みました。

ところが、「それは、確かに不思議なことだが、飛んで来たのだから、倉は返せん。」と法師はすっとぼけながらも、素っ気無く言い返しました。

長者が呆気にとられていると、法師が「ここには、このような倉もないから、なにかと物を置くのによい。中の物はそっくり持っていってくれ。」と言い出すではありませんか。

「そんな。すぐには運び出せません。何しろ千石も積んであるのですから。」

「なに、そんなことは簡単だ。私が全部運んであげよう。」

法師は事も無げに、そう言うと、鉢の中に一俵の米俵を載せるよう指示しました。

そして、それが飛び上がると、雁などが続くように残りの俵も続いて飛び立ちました。

やがて、米俵は全部、無事、長者の家の庭に落ちました。
  1. 2013/08/21(水) 11:49:49|
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法道寺(その十八)

法師の念力の凄まじさには驚かされます。

この法師は後に命蓮上人と呼ばれ、信貴山朝護孫子寺の中興開山の聖として崇められることになります。

したがって、法師の籠った山とは、河内の信貴山に他なりません。

信貴山縁起絵巻物は、この命蓮上人に関する物語を描いたものです。

「飛倉の巻」「延喜加持の巻」「尼公の巻」の三巻からなっており、四大国宝絵巻の一つに数えられています。

前掲した「宇治拾遺物語」の説話が、詞書を欠く「飛倉ノ巻」の補完をする役割を果たしています。
  1. 2013/08/20(火) 16:50:12|
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法道寺(その十七)

この山の麓には、身分はいやしいが、たいへんな金持が住まいしていました。

そこに法師の鉢はいつも飛び行き、供物を入れてもらうと飛び帰っていました。

ある日、その長者が大きな倉を開けて,中の物を取り出そうとしていた時、この鉢が飛んできて、いつもの物乞いを始めました。

長者は、「いつもの鉢が来た。ひどく欲が深い鉢だなあ」と呟き、鉢を手に取るや倉の隅へ投げつけました。

そして、決し供物を入れようとしませんでした。

鉢は投げ込まれた倉の中で待っていたしたが、長者は必要な出し入れを終えると、鉢のことなど忘れてしまい、もちろん供物などを入れることなく、鉢を倉から取り出すことさえせずに、戸を閉め切って、帰ってしまいました。

暫くして、この倉がいきなり、ゆさゆさと揺れ始めました。

「これは如何に、如何に」と人々が騒ぎ回るうちに、倉は揺らぎ揺らぎながら地面から一尺ほど揺らぎ上がったものですから、「これは如何なることだ」と、人々が怪しみ騒いでいると、

「まこと,まこと、あの鉢のことを忘れ、取り出さずにいたから、あの鉢の仕業なのか」
 
などと言ううちに、蔵の隙間から鉢が出てきたと思うと、倉を載せて浮き上がり、一二丈ばかり空中に登っていきました。

そして、倉が飛び去って行くので、人々は罵り、呆れて騒ぎたてました。

倉の主もどうすることもできなかったので、せめて、この倉の行き先を見ようと追いかけていきました。

周囲の人たちも皆走りました。
  1. 2013/08/20(火) 03:53:14|
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法道寺(その十六)

今は昔、信濃国に、とある法師がいました。

この法師は、田舎で法師となったため、まだ正式な受戒も受けてはいませんでした。

そこで、何とかして都へのぼり、東大寺というところで受戒しようと思い立ち、あれこれ算段してようやく都にたどり着きました。

そして、無事正式な受戒を済ませることができました。

そこで、信濃国へ帰ろうと思いましたが、よく考えれば、帰ったところで特別に寄辺もありませんし、なによりも、あのような無仏世界のような場所へ帰るよりは、ここ奈良の都に留まろうと言う気持ちが沸いてきました。

それで、東大寺の大仏の御前にお参りして、何処かに行って、長閑に住める所はないものかと、あちこち見回しました。

すると、南西の方向に当たって、山がかすかに見えました。

そこへ行って住もうと思い、法師は山中に入り、言うに言えないほど激しく修行をして、年月を過ごしていました。

そのうち、ふとしたことで、小さな廚子仏を見いだしました。
 
それは、毘沙門天でおわしました。

法師はそこに小さなお堂を建てて、毘沙門の像を据え奉り、さらに激しい修行に努めて、年月を送りました。
  1. 2013/08/19(月) 23:12:04|
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法道寺(その十五)

寂昭は、長保5年(1003年)に宋に渡海し、北宋の第3代皇帝・真宗(しんそう)から紫衣と円通大師の号を賜わりました。

しかし、日本に帰国する事がないまま杭州で没しています。

宇治拾遺は、寂昭上人は唐の国へ渡ったとしていますが、わが国では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝を指す言葉として使用しています。

ところで、同じ宇治拾遺物語巻八には、もう一つの「鉢を飛すること」の話が載せられています。

「信濃国の聖の事」と題するこの説話は、あの「信貴山縁起絵巻」に係わるものです。

少し大筋から外れてしまいますが、寄り道のつもりでお付き合いください。

信濃国の聖の事

今は昔、信濃国に法師ありけり。さる田舎にて法師になりにければ、まだ受戒もせで、いかで京に上りて、東大寺といふ所にて受戒せんと思ひて、とかくして上りて、受戒してけり。
さてもとの国へ帰らんと思ひけれども、よしなし、さる無仏世界のやうなる所に帰らじ、ここに居なんと思ふ心つきて、東大寺の仏の御前に候ひて、いづくにか行して、のどやかに住みぬべき所あると、万の所を見まはしけるに、未申(ひつじさる)方に当りて、山かすかに見ゆ。そこに行ひて住まんと思ひて行きて、山の中に、えもいはず行ひて過す程に、すずろに小さやかなる廚子仏(づしぼとけ)を、行ひ出したり。毘沙門にてぞおはしましける。
そこに小さき堂を建てて、据ゑ奉りて、えもいはず行ひて、年月経る程に、この山の麓に、いみじき下種徳人ありけり。そこに聖の鉢は常に飛び行きつつ、物は入れて来けり。大なる校倉のあるをあけて、物取り出す程に、この鉢飛びて、例の物乞ひに来たりけるを、「例の鉢来にたり。ゆゆしくふくつけき鉢よ」とて、取りて、倉の隅に投げ置きて、とみに物も入れざりければ、鉢は待ち居たりける程に、物どもしたため果てて、この鉢を忘れて、物も入れず、取りも出さで、倉の戸をさして、主帰りぬる程に、とばかりありて、この倉すずろにゆさゆさと揺ぐ。「いかにいかに」と見騒ぐ程に、揺ぎ揺ぎて、土より一尺ばかり揺ぎあがる時に、「こはいかなる事ぞ」と、怪しがりて騒ぐ。「まことまこと、ありつる鉢を忘れて取り出でずなりぬる、それがしわざにや」などいふ程に、この鉢、倉より漏り出でて、この鉢に倉乗りて、ただ上りに、空ざまに一二丈ばかり上る。さて飛び行く程に、人々ののしり。あさみ騒ぎ合ひたり。倉の主も、更にすべきやうもなければ、「この倉の行かん所を見ん」とて、尻に立ちて行く。そのわたりの人々もみな走りけり。
  1. 2013/08/19(月) 00:22:16|
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法道寺(その十四)

寂昭は申しました。

「鉢を飛ばすということは、別の邦を用いてする業でしょう。
 然るに、この寂昭は未だその法を修得しておりません。
 日本国においても、その法を行う者もありましたが、末世になれば行う者もなく、
 どうしてわたしに鉢を飛ばせましょうか」と言い続けていますと、

「日本の聖、鉢遅し、鉢遅し」
 と、まわりが口々に罵り始めました。

 そこで寂昭、日本の方へ向い、祈念して言うには、
「我国の三宝、神祇助けたまえ。恥を見せたまうな」
 と念じ入っていると、
 
寂昭の鉢が、独楽のようにくるくる周り、唐の僧侶より早く飛んで、食物を受けて戻ってきたのです。

 その時になって、国王も皆も、「高貴な方だ」と、拝んだと伝えられています。・・・
  1. 2013/08/18(日) 20:54:21|
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法道寺(その十三)

【寂照】「寂昭」とも書く)平安中期の天台宗の僧。俗名、大江定基。入宋し僧俗の尊崇を受けた。詩歌に優れ、「本朝文粋」「後拾遺和歌集」などに収録される(三省堂 大辞林)。

・・今は昔、寂昭上人が、唐の国へ渡った後、その国の王が、国中から高僧を召し集めて堂を飾り、僧膳を設けて、経の講義をさせました。

もちろん、寂昭もその席に招かれ、出席しましたが、国王は僧たちに、「今日の食事は、膳部の運び手は使わぬことにする。それぞれが自分の鉢を飛ばして、食事を受けるように」
 と命じられました。
 
無論、これは日本の僧侶を試そうとしてのことでした。

多くの僧侶たちは、着席したまま次々に鉢を飛ばして、食べ物を受けて行きます。
 
寂昭は下座に着き、やがて自分の番が来たので、鉢を手にして立ち上がろうとするのを、

「どうした。鉢を飛ばして受ければよいぞ」と、人々は、口々に寂昭を留めようとしました。
・・
  1. 2013/08/18(日) 20:19:45|
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法道寺(その十二)

鉢は、僧の携えるべき什器の一つで、人々から供養を受けるための容器ですから、修行を積んだ僧の験力を現すための道具としては最適なものであったのでしょう。

古典を紐どけば、飛鉢の法を使う僧の物語を少なからず目にすることができます。

その一例を、宇治拾遺物語巻十三「寂昭上人、鉢を飛す事」という説話に見ることができます。

・・今は昔、三河入道寂昭といふ人、唐(もろこし)に渡りて後、唐の王、やんごとなき聖どもを召し集めて、堂を飾りて、僧膳を設けて、経を講じ給ひけるに、王のたまはく、「今日の斎莚(さいえん)は、手長(てなが)の役あるべからず。おのおの我が鉢を飛せやりて、物は受くべし」とのたまふ。その心は、日本僧を試みんがためなり。
さて諸僧、一座より次第に鉢を飛せて、物を受く。三河入道末座に着きたり。その番に当て、鉢を持ちて立たんとす。「いかで。鉢をやりてこそ受けめ」とて、人々制しとどめけり。寂昭申しけるは、「鉢を飛する事は、別の法を行ひてするわざなり。然るに寂昭、いまだこの法を伝へ行はず。日本国に於ても、この法行ふ人ありけれど、末世には行ふ人なし。いかでか飛さん」といひて居たるに、「日本の聖、鉢遅し鉢遅し」と責めければ、日本の方に向ひて、祈念して曰く、「我が国の三宝、神祇助け給へ。恥見せ給ふな」と念じ入りて居たる程に、鉢独楽(こまつぶり)のやうにくるめきて、唐の僧の鉢よりも速く飛びて、物を受けて帰りぬ。その時、王より始めて、「やんごとなき人なり」とて、拝みけるとぞ申し伝へる。・・
  1. 2013/08/18(日) 16:13:28|
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