案山子のダンス

戯れに、小説など。照れますな。

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美多弥神社(その六十一)

和田賢秀は楠木正季の五男で、楠木正成公の甥とされています。

では、なぜ和田姓を称しているのでしょうか。

もっとも、賢秀の兄・高家も和田姓を名乗っています。

高家は、建武元年(1334)前後に、正成公の命により、「岸」と呼ばれた土地に旧岸和田城を築いたと伝えられています。

その地名と和田の苗字が合わさり、その地が岸和田と呼ばれるようになったとされています。

ところで、彼らが名乗った、この「和田」は母方の姓ではないかと考えられます。


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  1. 2013/07/31(水) 11:07:27|
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美多弥神社(その六十)

在所の人たちは賢秀の亡骸を埋め、歯噛みさんと呼んで敬っているうちに、いつしか、それは歯の神様に転化して、歯痛封じの信仰の対象となっていきました。

何とも素朴でユーモラスな現象です。

今日では大阪府の史跡指定を受け、参拝者も絶えないようです。

すぐ近所には、四条畷神社が鎮座されています。

当社には、楠木正行公を主祭神とし、他に、楠木一族の将士24柱が配祀されています。

和田賢秀が含まれていることは云うまでもありません。
  1. 2013/07/30(火) 13:57:38|
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美多弥神社(その五十九)

太平記によると、賢秀は、敵中ただ一騎で、密かに師直に近寄りました。

もう少しで師直を討ち取れる距離にまで近づいた時に敵勢に与していた元正行の配下であった湯浅本宮太郎左衛門に見破られ、背後から切りつけられ落命しました。

さぞ、無念なことであったでしょう。

その無念さが、睨み殺すとか首になっても噛み付いて離れないと言う凄まじい伝承を呼んだのでしょう。

  1. 2013/07/30(火) 10:22:11|
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美多弥神社(その五十八)

四條畷市南野に、「和田賢秀公墓」がお祀りされています。

通称「歯噛(神)様」として、地元では親しまれています。

案内板には、次のように記されています。

「和田賢秀公墓
このお墓は正平三年一月五日楠正行公が四条畷で敵将高師直の大軍と戦い討死された時、共に戦われた和田賢秀公の墓です。
賢秀は源秀ともいわれ、正行公とは従兄であり、歴戦の勇将で、新発意ともいい、伝説によると賢秀公討死の際、敵の首に噛み付き睨んで放さず、敵はそれが因で死んだ。
以来、土地の人は賢秀公の霊を歯噛(神)様として祀っている。」
  1. 2013/07/29(月) 19:22:29|
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美多弥神社(その五十七)

しかし、佐々木道誉の軍勢に後方に回りこまれた正行勢は、包囲される形となりました。

それでも、怯むことなく正行勢は前進を続けました。

「太平記」では、楠木軍が少数の兵で突撃し、あと一歩で師直の首を取るところまで迫ったように描かれていますし、師直の影武者の首級を挙げたとまで伝えています。

しかし、実際は、圧倒的な兵力差は如何ともなしがたく、包囲された楠木方の惨敗に終わったようです。

正行は弟の正時と刺し違えて自決しましたが、和田新発意の最期については「太平記」は次のように綴っています。

少し長くなりますが、その件を引用しておきます。

「和田新発意(しんぼち)如何して紛(まぎ)れたりけん、師直が兵の中に交(まじ)りて、武蔵守(むさしのかみ)に差違(さしちがへ)て死(しな)んと近付(ちかづき)けるを、此(この)程河内より降参したりける湯浅本宮(ゆあさほんぐう)太郎左衛門と云ける者、是を見知て、和田が後(うしろ)へ立回(まはり)、諸膝切て倒(たふるる)所を、走寄て頚を掻(かか)んとするに、和田新発意(しんぼち)朱(しゆ)を酒(そそ)きたる如くなる大の眼を見開て、湯浅本宮をちやうど睨(にら)む。其(その)眼終(つひ)に塞(ふさが)ずして、湯浅に頭をぞ取られける。大剛(たいかう)の者に睨まれて、湯浅臆(おく)してや有けん、其日より病付て身心悩乱(なうらん)しけるが、仰(あふの)けば和田が忿(いかり)たる顔天に見へ、俯(うつぶ)けば新発意(しんぼち)が睨める眼地に見へて、怨霊(をんりやう)五体(ごたい)を責(せめ)しかば、軍(いくさ)散(さん)じて七日と申に、湯浅あがき死(じに)にぞ死にける。」
  1. 2013/07/29(月) 03:22:01|
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美多弥神社(その五十六)

正平三年・貞和四年(1348)、連敗中の足利幕府軍は業を煮やし、ついに本腰を入れてきました。

高師直を総大将に数万の大軍が河内の東条や吉野の南朝勢力に攻め込んでくることになりました。

南朝の総帥・北畠親房は、楠木正行公にその迎撃を命じました。

迎え撃つ楠木勢はその数三千といわれています。

後に四条縄手の戦いと呼ばれる合戦が幕を開けることになります。

翌正月五日早朝に、河内往生院城を出た楠木正行勢は、飯盛山や野崎付近に陣取っていた高師直勢と戦闘を開始しました。

楠木勢は、まず高勢の縣下野守の軍を打ち破り、続いて四条村あたりで武田信武の軍を破りました。
  1. 2013/07/28(日) 15:01:22|
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美多弥神社(その五十五)

和田賢秀は、楠木正成の甥で楠木正氏か楠木正季の子と伝えられています。

また、和田新兵衛高家の弟であったともいわれています(朝日日本歴史人物事典)。

通称は新発意。

楠木正行公に従い、各地で転戦し、武名を轟かせました。

前述しましたように、正平二年(1347)の住吉合戦では、楠木軍とにらみ合っていた山名氏清の陣に単身で小唄を歌いながら立ち向かっていきました。

それに、続いて阿間了願も名乗りをあげて山名勢の面前にに進み出ました。

呆気にとられた山名勢はあっという間に、賢秀らに三十六騎を討ち取られたといわれています。

やがて、我に帰った山名勢はこの二人を取り囲み始めましたが、あの二人を見殺しにするなと楠木軍の突撃があり、その勢いに押されて山名勢は総崩れとなりました。

この場面を、太平記は『楠又是(これ)を見て、「和田討(うた)すな続けや。」とて、相懸(あひがかり)に懸(かかつ)て責(せめ)戦ふ。』と描写しています。
  1. 2013/07/27(土) 10:01:55|
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美多弥神社(その五十四)

正平二年・貞和三年(1347)8月10日に楠木正行公は「一族の和田新発意賢秀」とともに紀伊国の隅田城を攻めました。

さらには河内池尻、八尾城を攻め、9月17日の藤井寺や八尾教興寺での合戦では細川顕氏を一蹴しました。

まさに連戦連勝の勢いを示しました。

続いて、11月23日からは、摂津住吉において、細川顕氏と山名時氏を打ち破りました。

前掲した和田賢秀(太平記では源秀)の男ぶりが華やいだのは、この戦いでのことです。
  1. 2013/07/26(金) 09:17:24|
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美多弥神社(その五十三)

ご存知のように、楠木正行公は、正成公のご長子で、後に小楠公と呼ばれた方です。

延元元年(1336)12月に後醍醐天皇は、密かに京をのがれられました。

南北朝時代が始まったわけです。

それを正行公ら一族郎党が河内国でお出迎えしたと伝えられています。

さらに、後醍醐が、河内を経由して吉野吉水院への潜幸の砌にも、正行公は帝のお供をしたとされています。

延元五年(1340)に正行公は左衛門少尉と検非違使に任官され、次いで河内の国司となられました。

遂には、畿内における南朝軍の中枢の地位を占めることとなられました。
  1. 2013/07/25(木) 17:31:18|
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美多弥神社(その五十二)

全国神社祭祀祭礼総合調査( 神社本庁)には、当社について、「太平記によると、足利尊氏の執事、高師直、師泰の軍と四条畷の戦いで楠木正行と共に戦った和田新兵衛、和田賢秀は当地美木多の和田家の祖である。」という記述があります。

和田賢秀に関しては、太平記巻第二十五に「楠が勢の中より、年の程二十許(はたちばかり)なる若武者(わかむしや)、和田新発意源秀(わだしんぼちげんしう)と名乗(なのつ)て、洗皮(あらひかは)の鎧(よろひ)に、大太刀小太刀二振(ふたふり)帯(はい)て、六尺(ろくしやく)余(あまり)の長刀(なぎなた)を小脇(こわき)に挟(さしはさ)み、閑々(しづしづ)と馬を歩(あゆ)ませて小哥(こうた)歌(うたひ)て進みたり。」と言う描写が残されています。
  1. 2013/07/25(木) 02:23:13|
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美多弥神社(その五十一)

ところが、楠木正成公は多面性を持つ人物だといわれています。

正成公が生まれ育ち、また幕府軍と戦われたのは、河内国の赤坂と言う地です。

当地は、辰砂を含んだ土質であり、辰砂は水銀や朱の原鉱となります。

楠木氏は代々、この辰砂の採掘を業としていたのではないかとされています。

それに加えて、楠木氏は水運業も営んでいたというのが有力な説になりつつあります。

採掘した水銀や朱を自ら河川を利用して各地へ配送したと考えられているのです。

とすると、正成公には産業人としての面も伺えることになります。

「美多弥の宮由緒」には、「商工業繁栄の福の神として朝野の信仰特に厚く又楠正成一族の守護神であり」と記さ
れていますから、産業家としての楠木一族が当社を守護神として崇拝したのも無理からぬことと思えてきました。
  1. 2013/07/24(水) 09:05:17|
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美多弥神社(その五十)

八幡神とは、云うまでもなく、全国の武士から武運の神(武神)として崇敬を集めた神様です。

誉田別命とも呼ばれており、応神天皇と同一視されています。

後に神仏習合して、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも称されることになりました。

八幡神が、正成公の守護神。

これは分かりすぎるほど納得できます。

なにしろ、湊川で壮烈な最期を遂げられた楠木正成公にとってこれ以上相応しい守護神は望めないでしょう。

帝国海軍の潜水艦が菊水の旗と八幡大菩薩の幟を艦橋にはためかせて出撃していったのも宜なるかなの光景です。
  1. 2013/07/23(火) 20:14:04|
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美多弥神社(その四十九)

楠木正成公の守護神をお祀りしたもう一つの神社は、淡路島に鎮座されています。

淡路市久留麻の松帆神社です。

境内案内板には「建武中興の忠臣、楠木正成が湊川の戦で自刃の砌家臣吉川弥六に日頃守護神と崇めていた八幡大神を託す。
弥六は仲間と共に淡路に逃れ来て小祠を建てこれを祀り、この地を楠木村と称した(現在の楠本)。
応永六年(1399年)八月に現在の地に奉遷し、八幡宮として創建せされて以来浦・仮屋・小田の氏神として信仰を集めている。」とあります。
  1. 2013/07/23(火) 13:53:20|
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美多弥神社(その四十八)

もっとも、前述しました楠木氏の氏神・建水分神社は、その社名が示すように、「用水を公平に分配する」ことを司る神様をお祀りしたお社です。

併祀されている天水分神、国水分神は、それぞれ天空と大地の水を施し、用水を公平に分配する神様だといわれています。

さらに、罔象女神は、水を主宰する神様とされています。

用水の配分は、稲作と密接な関係があることは云うまでもありませんから、その点では楠木正成公の守護神が、「稲荷大神」であったとしても不思議ではないのかも知れません。
  1. 2013/07/22(月) 12:13:39|
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美多弥神社(その四十七)

長崎市伊良林には、「若宮稲荷神社」というお社が鎮座されています。

ご由緒によると、当社は、その昔南北朝時代の忠臣楠木正成公の守護神(稲荷大神)を延宝元年(1673)に現社地に奉斎したと伝えられているそうです。

武人として知られた楠木正成公の守護神が「稲荷大神」というのも何やら奇妙な感じがします。

ご存知のように、稲荷大神は商売の神様として有名です。

また、その御神徳は、五穀豊穣、産業隆隆、福徳円満、交通安全、家業繁栄と多岐に渡っているそうです。

稲荷大神とは、五柱の神様の総称だそうで、主祭神は「宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)」という稲の神様です。
  1. 2013/07/22(月) 08:29:11|
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美多弥神社(その四十六)

ところで、大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分には、建水分神社(たけみくまりじんじゃ)が鎮座されています。

創建は第10代崇神天皇5年(西暦前92)のことだとされています。

「延喜式神名帳」には、河内國石川郡「建水分神社」と記載されている式内社です。

主祭神は、天地創造・万物生成の神である天御中主神 (あめのみなかぬしのかみ)です。

御由緒には、「第96代後醍醐天皇の御代に至り、建武元年(1334)楠木正成公に勅して、元は山下にあった社殿を現地山上に遷し」とあります。

当社は、楠木氏の氏神であり、境内には、楠木正成(くすのきまさしげ)をまつる南木(なんぼく)神社があります。
  1. 2013/07/21(日) 08:04:49|
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美多弥神社(その四十五)

一方、楠木系の和田氏(わだうじ)については、よく分からないことが多いようです。

楠木氏の本姓は橘氏だとされています。

一般的には、伊予橘氏の末裔だと云われています。

太平記には、正成の出自は橘氏嫡流系統だと記されています。

ところが、楠木正成は、同じ橘姓の熊野国造和田氏の出だとする説もあります。

熊野国造とは、古代の熊野国を支配した氏族で,橘姓を名乗っていましたが、橘良冬が和田庄司(和田国造)を称し、それ以降、和田氏となりました。

その子孫は、紀伊の全域、さらには河内国に勢力を延ばしていきました。

南北朝時代になって、伊予橘氏の橘遠保の後裔とされる和田正遠(在河内国)が楠木氏(伊予橘氏の支流)の家系を継承したされています。

この正遠が楠木正成の父に当たるとされています。
  1. 2013/07/20(土) 15:06:46|
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美多弥神社(その四十四)

「和名類衆抄」の和田郷については「邇岐田」「爾木多」とあるようです。

「にぎた」と訓じる姓には、和太、和田、饒田等があります。

ここで、お習いをしておきますと、和田氏(にぎたうじ)は,11世紀末ころ和泉国大鳥郡和田郷の開発領主となり,和田氏を称するようになったと考えられています。

さらに、鎌倉時代に入ると幕府御家人の地位を獲得、次いで13世紀初頭、その所領を金剛寺に寄進し、ここで和田荘が成立しました。

そして、和田氏はその荘官職の地位を得ました。

また、春日社に和田荘を寄進しその所領の保全を図りました。
  1. 2013/07/19(金) 08:13:20|
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美多弥神社(その四十三)

兵火にかかり、灰燼と帰した美多弥神社は、「元禄元年3月和田道山(讃)楠木氏の裔なるを以て之を再興し(大阪府全志)」とされています。

楠木氏の後裔とされる、この和田道山(讃)なる人物の素性ははっきりしません。

しかし、本来は大中臣氏系の和田(にぎた)氏の祖神と称された当社が、なぜ「楠木正成の守護神」となり、またその後裔が再興に係わったのか、その理由が今ひとつ理解できません。

もう何度も触れましたが、和田氏は、和泉国大鳥郡和田荘の荘官で、鎌倉幕府御家人でした。

この和田は、「にぎた」または「みきた」と称されたといわれています。
  1. 2013/07/18(木) 07:15:55|
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美多弥神社(その四十二)

そこで、名高い太田城の水攻めが始まるわけですが、籠城側も頑張り、(天正十三年)四月二十二日に至りようやく、主だった者53人の首を差し出して降伏しました。

この落城の日付から思い出されたのは、小谷城郷土館のHPの次の一文です。

「小谷城も栂山・豊田城共にそのとき落城しました。天正三年(1575)四月二十二日のことです。」

もちろん、偶然の一致でしょうが、少々奇妙な感慨に打たれます。

それはともかく、この時期の羽柴軍であれば、根来に味方する神社・仏閣等は何の躊躇もなく焼き払ったことでしょう。
  1. 2013/07/17(水) 15:48:34|
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美多弥神社(その四十一)

ところで、羽柴秀吉が紀州征伐を行ったのは、天正十三年(1585)のことです。

この年三月始め、秀吉は紀州攻めを決意し、待ち構える根来と雑賀の連合軍を打ち砕くべく、十万の大軍を動員しました。

まず、秀長に和泉の千石堀砦を、細川、蒲生には積善寺砦の攻略をそれぞれ命じました。

当時の根来寺は、寺領が十万石、僧兵の数は三万という一大勢力を誇示し、和泉国南部もその勢力圏としていました。

和泉の平定を終えた秀吉は、いよいよ紀州へと軍を進めます。

僅か数日で、根来衆は壊滅し、僧坊二百といわれた根来寺全山は炎上しました。

勢いに乗った羽柴勢は、雑賀の牙城である太田城を取り囲みました。
  1. 2013/07/17(水) 09:53:47|
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美多弥神社(その四十一)

信長は兵をまとめ、十三日に京都を出発して、十六日には和泉に入っています。

紀伊路を使ったものと思われます。

もしそうであれば、信長軍本隊は若松荘や和田荘に侵入はしていません。

万一、別働隊が通過したとしても、郷土館のHPがいう「和泉の神社・仏閣から城主にいたるまで総て根来党」であったという理由で攻め懸けたり、焼き払ったりする道理はありません。

根来党が織田信長に友好的であったのは、信長が和泉国南部にかけての根来寺の寺領を安堵したからであり、その関係を打ち壊すような蛮行に信長軍が及ぶはずはありません。
  1. 2013/07/16(火) 12:44:55|
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美多弥神社(その四十)

信長は、十六日には和泉に入っています。

そして、翌十七日に雑賀衆の前衛拠点がある貝塚を攻撃しました。

この日、根来衆が織田軍に合流しています。

十八日には佐野、二十二日には志立(信達)へと信長の本陣が進んでいきました。

そこで、織田勢は山手と浜手の二手に分かれることになります。

山手の三千の軍勢は、根来衆と雑賀三組を先導役として、信達から風吹峠を越えて根来に進みました。

その後、紀ノ川を渡って東側から雑賀に肉迫することになります。

一方、浜手の織田勢は淡輪から孝子峠を越えました。
  1. 2013/07/16(火) 06:39:21|
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美多弥神社(その三十九)

さて、本筋に戻ります。

石山合戦で手こずっていた織田信長は、石山本願寺の主力となっていた雑賀衆の本拠である紀伊雑賀を攻略しようと思い立ちます。

そして、天正四年(1576)五月頃から切り崩し工作を始めます。

翌五年(1577)二月までに雑賀五組のうち社家郷・中郷・南郷のいわゆる雑賀三組を寝返らせることに成功します。

同五年二月二日、信長は雑賀の残り二組、雑賀荘・十ヶ郷を攻略するために大軍を発します。
  1. 2013/07/16(火) 05:26:46|
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美多弥神社(その三十八)

前掲の記述の中で違和感を覚えるのは、織田信長の「根来攻め」という件です。

織田信長が攻めたのは雑賀衆であり、根来衆は終始織田家に友好的でした。

その何よりの証拠は、織田軍の雑賀攻めの際には、根来衆はその先導役を勤めているほどです。

したがって、織田信長の根来攻めという事実はなく、根来を攻撃したのは、信長亡き後の豊臣秀吉です。

時期も天正十三年(1585年)のことです。

資料館の記事にある「天正三年(1575)四月二十二日」と言う日付には、一体どのような歴史的事実が隠されているのでしょうか。

因みに、天正三年といえば、 織田・徳川連合軍と武田軍が長篠城西方の設楽原で激突した、所謂「長篠の戦い」があった年です。
  1. 2013/07/15(月) 20:53:04|
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美多弥神社(その三十七)

本題に入り前に、少し寄り道をさせてください。

泉北ニュータウンに隣接する堺市南区豊田に小谷城郷土館という資料館があります。

鎌倉初期に、この地へ地頭として赴任してきた小谷氏の居城址に建てられたものです。

この城は、近くの栂山城、豊田城とともに、鼎城と呼ばれていました。

同郷土館のホームページには、次の記述があります。

「二十三代大夫進種氾の時に織田信長の根来攻めがあり、和泉の神社・仏閣から城主にいたるまで総て根来党であったため、小谷城も栂山・豊田城共にそのとき落城しました。
天正三年(1575)四月二十二日のことです。」
  1. 2013/07/15(月) 13:44:11|
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美多弥神社(その三十七)

織田信長の加護を受けたはずの当社は、その後、意外な運命に翻弄されます。

総合調査の一文を借用すれば、「天正5年(1577年)、和歌山の雑賀衆制圧のために兵を起こした織田信長軍に近くの放光寺とともに神社は焼かれた。」という事実です。

これは、信長の第一次雑賀攻めの際の出来事ですが、「織田木瓜」の社紋を社頭に高々と掲げていた筈の当社が何故当の織田の軍勢の戦火にかからなければならなかったのか、数々の疑問が沸々と沸きあがってきます。

  1. 2013/07/14(日) 13:27:27|
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美多弥神社(その三十六)

正虎の懇願を受け入れて、信長が楠木正成の守護神であった当社の加護を約定したとしても、それは特に不自然な想像の産物とはいえません。

ところで、織田家の正紋は「木瓜」です。

織田木瓜とも呼ばれる、この家紋は尾張守護であった斯波氏より織田家が拝領したものだといわれています。

現代とは異なり,当時はいくつも家紋を持つことは珍しいことではありませんでした。

「木瓜」は織田信長が用いた家紋の中では最も有名なものです。

全国神社祭祀祭礼総合調査がいう「織田家の五瓜」の紋とは、この「織田木瓜」のことだと思われます。

  1. 2013/07/14(日) 07:44:04|
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美多弥神社(その三十五)

楠木正虎は、戦国時代から安土桃山時代にかけての人物です。

世尊寺流の名うての書家であり、足利義輝、松永久秀、織田信長、豊臣秀吉に祐筆として仕えました。

旧名は大饗長左衛門ですが、楠木正成の子孫と称し、自ら楠長諳と号していました。

長諳は、北朝により朝敵とされた先祖の楠木正成の赦免を嘆願しました。

松永久秀の口添えもあり、正親町天皇の勅免を受けて、晴れて楠木氏を名乗り、正虎と改名することとなりました。

正虎は、織田信長上洛後は信長の祐筆として、本能寺の変まで仕えていましたので、相当な信頼を勝ち得ていたのではないかと推察できます。
  1. 2013/07/13(土) 19:10:32|
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美多弥神社(その三十四)

当社でも、江戸前期以前に勧請され、牛頭天王社として近隣の崇拝を受けてきたものと思われます。

話題が変わりますが、全国神社祭祀祭礼総合調査(神社本庁)によりますと、当社は「織田信長の加護を受け紋を織田家の五瓜と定め現在に至る。しかし、天正5年(1577年)、和歌山の雑賀衆制圧のために兵を起こした織田信長軍に近くの放光寺とともに神社は焼かれた。」とあります。

織田信長と当社と間に接点があったとは意外な気もしますが、敢えて推理を働かせると、それは楠木正虎という人物を介してではなかったかと考えられます。
  1. 2013/07/13(土) 11:07:15|
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