案山子のダンス

戯れに、小説など。照れますな。

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美多弥神社(その十七)

「祇園牛頭天王御縁起」には、その奥書に「右以往昔草創之古本令書写者也/時寛永第拾壱年歳舎甲戌戊辰月中澣二戊戌日」とあります。

寛永11(1634)年に往昔草創之古本を書写したとありますが、著者、書写者共に不詳です。

蘇民将来の物語ですが、それは以下のような展開を見せます。

「豊饒国の武答天皇の太子は七歳でその丈七尺五寸、頭に三尺の赤い角があるという姿でした。

父は太子に位を譲り、牛頭天皇と名付けます。

天皇が狩りをしていると一羽の鳩があらわれ、天皇の后となるべきしゃかつ龍王の三番目の娘、婆利采女のもとへ案内すると言います。

眷属をひきつれて龍宮へ向かう途中、天皇は古単という長者に宿所を求めますが、貪欲なな古単はそれを許しません。

一方貧しい蘇民将来は天皇を歓待し、牛玉という玉を授かります。

龍宮で婆利采女と結婚し八人の皇子皇女をもうけた天皇は、帰途再び蘇民の家に宿り、古単の家には災いをなそうとします。

古単は相師の占いにより千人の僧に大般若経を講読させますが、中に一人の僧が居眠りしていたために結局天皇の眷属に一族もろとも殺されてしまいます。」
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  1. 2013/06/30(日) 14:10:05|
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美多弥神社(その十六)

武塔の神とは、もともと異国の疫神であったものが、素戔嗚尊と習合することにより防疫神に転化したものと考えられます。

また、この伝承に関連して、「釈日本紀」の著者卜部兼方は、素戔嗚尊と牛頭天王を結びつける言説を残しています。
疫病を疫神の仕業とする観念は、8世紀ごろには発生していたと考えられています。

そして、疫神は外から、すなわち蕃国からやって来るものだとされていました。

蕃国とは具体的には、新羅や渤海のことです。
  1. 2013/06/29(土) 21:24:52|
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美多弥神社(その十五)

速須佐雄は、『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと、たてはやすさのおのみこと)と記されています。

素戔嗚尊と武塔神との関係については様々な説がなされているようです。

前掲の備後風土記の中の伝承では、蘇民将来に初め歓待されたのは、「武塔の神」でしたが、その後再び蘇民のもとを訪ねた折には、自らを「吾は速須佐雄の神なり」と名乗られています。

この記述は、既にこの時点で素戔嗚尊と武塔の神との習合が成立していたことを伺わせます。
  1. 2013/06/28(金) 20:05:30|
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美多弥神社(その十四)

備後国風土記の逸文は、卜部兼方によって記された釈日本紀巻7によって伺うことができます。

その中に、「蘇民将来」の逸話が引用されています。

「備後の国の風土記にいはく、疫隈(えのくま)の国つ社。昔、北の海にいましし武塔(むたふ)の神、南の海の神の女子をよばひに出でまししに、日暮れぬ。その所に蘇民将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚貧窮(いとまづ)しく、弟の将来は富饒みて、屋倉一百ありき。ここに、武塔の神、宿処を借りたまふに、惜しみて貸さず、兄の蘇民将来惜し奉りき。すなはち、粟柄をもちて座(みまし)となし、粟飯等をもちて饗(あ)へ奉りき。ここに畢(を)へて出でまる後に、年を経て八柱の子を率て還り来て詔りたまひしく、「我、奉りし報答(むくい)せむ。汝(いまし)が子孫(うみのこ)その家にありや」と問ひ給ひき。蘇民将来答へて申ししく、「己が女子と斯の婦と侍り」と申しき。即ち詔たまひしく、「茅の輪をもちて、腰の上に着けしめよ」とのりたまひき。詔の隨(まにま)に着けしむるに、即夜(そのよ)に蘇民と女子一人を置きて、皆悉にころしほろぼしてき。即ち詔りたまひしく、「吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり。後の世に疾気(えやみ)あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまひき。」
  1. 2013/06/27(木) 20:59:46|
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美多弥神社(その十三)

ところで、牛頭天王とは如何なるお方なのでしょうか。

朝日日本歴史人物事典によれば、「本来はインド祇園精舎の守護神だが,わが国では祇園社(京都市東山区の八坂神社)に祭られ,素戔嗚尊(スサノオノミコト)に同一視されている。祇園社は,貞観18(876)年に藤原基経が疫病を鎮めるために牛頭天王を祭って造営したもので,その祭礼は祇園祭として有名。仏教の牛頭天王がスサノオと習合したのは,牛頭天王が道教系の武塔神と同一視されていたためで,この武塔神は『備後国風土記』によれば,蘇民将来に一夜の宿を借り,その礼として疫病を免れる茅の輪を与えて「自分はスサノオノミコトである」と名乗ったという。人々は疫病を恐れ,その祟りを鎮める魔除けの神として牛頭天王(スサノオノミコト)に対する信仰が広まった。」とあります。

では、ここで登場された「武塔神」とは一体何者なのでしょうか。

この方のお名前は、『備後国風土記逸文』の記述・「疫隈国社」が初見となります。
  1. 2013/06/26(水) 21:56:40|
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美多弥神社(その十二)

 天児屋根命は、神仏習合により春日権現とお姿を変えられましたが、当社においては、元のままの形で残られたのは,まことに清清しい限りです。

ところで、当社にも併祀されている「ゴズテンノウ」とは、江戸時代に疫病除けの神として崇拝された渡来系の防疫神だといわれています。

明治初年の神仏分離に際しては、全国的に邪神として排斥されました。

そのため、ほとんどの牛頭天王社では、ご祭神を同一神として伝えられる「スサノオ」に変えています。

ところが、当社においては、そのままの形でお祀りされているのは、これまた結構なことだと感じ入ります。
  1. 2013/06/25(火) 14:02:03|
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美多弥神社(その十一)

天児屋根命は、興登魂命と許登能麻遅比売命の御子です。

中臣連等の祖神として知られた方です。

天岩屋戸神話の中では、天照大御神を岩屋から招き出すために太玉命(布刀玉命)とともに祝詞を奏上する役割を果たされています。

さらに、外は暗いはずなのに、賑やかなのを怪しまれた天照大神が、少し岩戸を開けられたとき、天児屋根命と布刀玉命のお二人が、天照大神から出た光を鏡で反射させて、外は明るいよう見せるようにされました。

天孫降臨に際しては、瓊々杵尊に従った五部神(天児屋根命、太玉命、天鈿女命、石凝姥命、玉屋命)の中の一柱です。

亦以手力雄神、立磐戸之側、而中臣連遠祖天兒屋命、忌部遠祖太玉命、掘天香山之五百箇眞坂樹、而上枝懸八坂瓊之五百箇御統、中枝懸八咫鏡、一云、眞經津鏡。下枝懸青和幣、和幣、此云尼枳底。白和幣、相與致其祈禱焉。又猨女君遠祖天鈿女命、則手持茅纒之矟、立於天石窟戸之前、巧作俳優。亦以天香山之眞坂樹爲鬘、以蘿蘿、此云此舸礙。爲手繦、手繦、此云多須枳。而火處燒、覆槽置覆槽、此云于該。顯神明之憑談。顯神明之憑談、此云歌牟鵝可梨。是時、天照大神、聞之而曰、吾比閉居石窟。謂當豐葦原中國、必爲長夜。云何天鈿女命㖸樂如此者乎、乃以御手、細開磐戸窺之。時手力雄神、則奉承天照大神之手、引而奉出。於是、中臣神・忌部神、則界以端出之繩。


於是天照大御神、以爲怪、細開天石屋戸而、內告者、因吾隱坐而、以爲天原自闇、亦葦原中國皆闇矣、何由以、天宇受賣者爲樂、亦八百萬神諸咲。爾天宇受賣白言、益汝命而貴神坐。故、歡喜咲樂。如此言之間、天兒屋命、布刀玉命、指出其鏡、示奉天照大御神之時、天照大御神、逾思奇而、稍自戸出而、臨坐之時、其所隱立之天手力男神、取其御手引出、卽布刀玉命、以尻久米此二字以音。繩、控度其御後方白言、從此以內、不得還入。故、天照大御神出坐之時、高天原及葦原中國、自得照明。
  1. 2013/06/24(月) 05:27:35|
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美多弥神社(その十)

当社略由緒によると、ご祭神は、天児屋根命以下九座とされています。

天児屋根命以外のご祭神は、牛頭大神(ゴズオオカミ)・菅原道真・天之水分大神・厳島大神(市杵島比売命)・

大国主大神・熊野大神・琴平大神(大物主大神)・八幡大神(誉田別尊)となっています。

もっとも、江戸時代に勧請された牛頭大神以外の諸神は、明治末年の政府の神仏統廃合政策によって近傍各地の神社から合祀されたものです。
  1. 2013/06/23(日) 08:14:52|
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美多弥神社(その九)

繰り返しますが、和泉の和田(みきた)氏は、大鳥郡和田郷庄を本領とする国御家人です。

本姓は大中臣ですから、楠木一族である河内の和田氏とは異なる氏族です。

河内和田氏の本姓は橘です。

元徳三年(1331)9月には、和泉和田氏の惣領助家は一族を率いて幕府方に参陣し、下赤坂城の合戦において奮戦しています。

もっとも、内々楠木方とも通じていたふしがあります。

正成の請いを受けて兵糧の提供をしたものと思われます。

後の千早合戦においては、助家は次男の助秀とともに寄せ手の幕府軍に参陣しながら、嫡男助康を宮方の京都攻撃に参加させています。

このような和泉和田氏の双方軍忠も、一族の生き残りをかけた苦肉の策なのでしょう。
  1. 2013/06/22(土) 07:00:29|
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美多弥神社(その八)

当社は、楠木正成公の守護神であったと伝えられています。

正成公は,後醍醐帝から恩賞として菊紋を下賜されましたが、畏れ多いとして、菊の上半分に水の流れの図を添えた菊水紋を用いることにしたと云われています。

もともと、楠木家は水神を祀る古社である「建水分神社(たけみくまりじんじゃ)」の氏子であったため、菊の半分と氏神に因む流水とを組み合わせて家紋としたとされています。

楠木一族の和田氏なども、この菊水紋を用いています。

文禄元年(1592)、楠木一族の 和田六右衛門が菊水の紋が入った燈篭一対を当社に奉納したと伝えられています。
  1. 2013/06/21(金) 07:11:29|
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美多弥神社(その七)

中世に和泉国大鳥郡和田荘の荘官を勤めていた和田氏は、『にぎた』、『みきた』と称していました。

因みに、建武元年(1334)の楠木正成仮名書挙状には「みきたのすりのすけ助家(和田修理亮助家)」とあります。

和田氏は、大中臣氏の後裔であり、助綱の時代に和田庄に開発領主として入ったものと考えられています。

そして、後に鎌倉の国御家人に組み込まれたのでしょう。

なお、開発領主とは、未開墾地を私力で開発しその田畑を所有する者のことですが,のち実質的支配権を留保したまま,中央の貴族・寺社に寄進して名主・荘官になる者が多かったとわれています。
  1. 2013/06/20(木) 06:38:10|
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美多弥神社(その六)

余談になりますが、この放光寺は、寺伝によれば白鳳年間役行者の開基と言われています。

さらに、天平年間行基が観世音菩薩の瑞光を拝し、観音像を安置し放光寺と名づけられたとされています。

最盛時には、金堂、大日堂、権現堂、蔵王堂、経堂などの諸堂を構え、二十余坊を持つ大伽藍の盛況を誇りました。

しかし、天正の兵火にかかり,諸堂は灰燼の憂き目を見ました。

和田氏は代々、この古刹の俗別当(ぞくべっとう)を勤めてきました。

なお、俗別当とは、俗人身分のままで寺院統轄の責任者である別当を務める者のことです。
  1. 2013/06/19(水) 06:23:37|
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美多弥神社(その五)

寛正2年10月24日の和田盛助譲状(和田庄和田氏文書)によると、和田氏が当社に深く係わっていた事実が伺われます。

その中で、「放上宮社々惣長者職」なる所職の件が見えます。

「放上宮」とは、延喜式内社である美多弥神社のことと考えられますから、「放上宮社々惣長者職」とはその神主職を意味するものだと思えます。

つまり、和田盛助は和田庄鎮守社の神職を務めていたわけです。

さらには、近くの「放光寺」の俗別当職も兼務しています。
  1. 2013/06/18(火) 06:45:39|
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美多弥神社(その四)

和名抄(937)には、当地の旧郷名は、「大鳥郡和田彌木多」とあります。

前掲の石碑にも、「鎮座地 堺市美木多上120番地」と記されているように、当地一帯に残る地名・美木多はこれに由来するものです。

大阪府全志(1922)は、和田郷の地名から推察して、「姓氏禄に、『和泉国神別(天神) 和太(田)連 天児屋根命之後也』とある和田氏の居りし所ならん。
 
美多彌神社は延喜式内の神社にして天児屋根命を祀れり。和田氏の祖神を祀りしものならん。」と述べているようです。

確かに、和田氏の祖神が、民直氏のそれと同神であるのが事実だとしても、今ひとつ両氏族の関係がはっきりしません。
  1. 2013/06/16(日) 21:24:18|
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美多弥神社(その三)

当社も古い社の例に違わず、創建年代・由緒なども不詳です。

実のところ、民直氏と当地との関係をはっきりと示す資料は現存しません。

境内の「美多弥の宮由緒」と刻まれた石碑にも「往古の事跡悠久にして詳らかならねど醍醐天皇の(約千年前)延喜式神名帳(神社の戸籍)にはすでに式内社として登載せられている。後醍醐天皇の御代には参萬坪を有する広大なる境内には大樹生いしげり堂々たる社にして商工業繁栄の福の神として崇敬者の信仰特に厚く又楠木正成一族の守護神でありしが天正年中(約380年前)織田信長の兵火にかゝり御炎上その後文禄元年(約350年前)楠木氏の遺族和田道讃本殿を再建せり。現代の本殿と拝殿は昭和47年改築す。
境内の自然林(シリブカガシの森)天然記念物に指定 」とあります。
  1. 2013/06/16(日) 10:40:10|
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美多弥神社(その二)

延喜式神名帳に、『和泉国大鳥郡 美多彌神社』とあります。

社名は民直(みたみのあたい)がその祖神を祀ったことによるとされています。
 
民直については、新撰姓氏禄(815)に「和泉国神別(天神) 民直 天児屋根命之後也」と記されています。

民直は、中臣氏系の氏族です。

日本書紀・天武即位前記に、大海人皇子が吉野山を脱出されたとき、皇子に従った舎人のなかに“民直大火”(たみのあたいおおひ)という人物と、衛我河(えがのかわ)の戦いで近江方と戦った大海人皇子方の将軍の一人として“民直小鮪”(たみのあたいおしび)なる人物が登場しています。
  1. 2013/06/16(日) 07:58:52|
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美多弥神社(その一)

鬱蒼とした社叢に囲まれた小高い丘の上に、その神社は鎮座されています。
式内社・美多弥(みたみ)神社です。
堺市の説明版には、こうあります。


「祭神は、天児屋根命・熊野大神・巌島大神・大国主命・菅原大神・八幡大神・琴平大神・素盞嗚男命・天之水分大神を祭る。

当社の歴史は詳らかではないが、延喜式神名帳にも記された古社である。

天正年中織田信長の兵火にかかり焼失したが、文禄元年(1592)に至り和田道讃が本殿を再建した。

近世では神仏混淆となり牛頭天王と改称、神宮寺(得泉寺)と宮座もあって、宮座の長老が寺の僧侶と共に社務を掌握していた。

その後神仏分離令により寺を廃止し、社名も八坂神社と改称神官が奉職することになったが、明治の神社合祀策により同40年(1907)に付近の村社5社と無格社3社を合祀し社名も旧に復した。

社叢は8250㎡あり、しりぶかがし・あらかし・楠・榊等の樹林が広がっている。

しりぶかがしはブナ科の常緑中高木で丘陵地などに生育するが、このように100本近くの樹林を形成する例は稀である。

また分布上でも西日本に多いこの樹林の東限近くにあたる為に昭和48年(1973)3月30日に大阪府の天然記念物に指定された。」
  1. 2013/06/15(土) 04:49:43|
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桜井神社(その五十六)

切妻造の建物には、妻側外壁に妻飾といわれる装飾品が取り付けられています。

特に機能はなく、あくまでも飾りのものです。

桜井神社の拝殿には、二重虹梁蟇股(にじゅうこうりょうかえるまた)と呼ばれる妻飾りが付けられています。

大きな梁の上に二つの蟇股を配置して、その上に短めの梁、さらにもう一つ蟇股を配置した構造です。

なお、虹梁(こうりょう)とは、梁の一種ですが、緩やかに湾曲した形状のため「虹」の名が冠せられているのです。

当社の蟇股の形は簡単な板状のもので、梁の両端に彫刻がないなど鎌倉時代の建物の特徴とされています。

境内入口には、鳥居がなく、神社山門が置かれています。

神仏習合の名残といえます。
  1. 2013/06/14(金) 10:38:06|
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桜井神社(その五十五)

この拝殿は、建築様式やその技法から鎌倉時代中期に建てられたと考えられる建物で、現存する拝殿建築のなかでも最も古いもののうちのひとつです。

木造切妻造・本瓦葺という神社建築としては珍しい構造です。

拝殿の中央・通り抜けの通路は、馬道(めどう)と呼ばれるものですが、堺市のHPによると、「祭礼時には、通路の

両脇の蔀戸を降ろして、床にすることができるような工夫が凝らされています。

もっとも、通路に面した柱には長方形の穴の跡があり、もともとは通路の部分も板敷の部屋であったのではないかといわれています。

正面から妻側にまわると、梁の間に蟇股という部材があります。この形が簡単な板状のものであることや、梁の両端に彫刻がもちいられていないことなどは、鎌倉時代の建物の特徴です。

内部も天井板が貼られていないので、妻側の構造技法と同様な梁や蟇股で建物が組み立てられていることがわかります。」とあります。
  1. 2013/06/14(金) 00:12:00|
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桜井神社(その五十四)

それでは最後に、堺市のHPが「堺市内では唯一の国宝であり、簡素で大変美しい建物です。」と賞賛する、当社の割拝殿について触れておきましよう。

割拝殿とは、中央が土間となっており、通り抜けることができる拝殿形式の建物です。

この拝殿は、鎌倉時代中期に建てられたと考えられるもので、現存する拝殿建築のなかでも最も古いもののうちのひとつだといわれています。

鎌倉時代にまで遡れる現存の神社建築は、全国的にも数は多くありません

加えて、当社の拝殿は、古式を伝える希少な割拝殿ということもあり、国宝に指定されています。
  1. 2013/06/13(木) 14:39:13|
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桜井神社(その五十三)

「御頭次第」の紙背文書中には、「座中定置条々」と題した文書が見えます。

ここでは座中の掟として、村を逐電した者および犯罪者を座から排除することを定めています。

これが堺市の説明にある「座が持つ掟」に当たるものでしょう。

ところで、「御頭次第」は正平6年(1351)からの記事が現存しています。

その冒頭には「年来旧帳者依錯乱引失事」とあります。

したがって、中村が別宮八幡宮の祭礼を行うようになったのは、それ以前ということになります。

別宮(べつぐう)とは、本宮に対する称号で本宮ときわめてかかわり深い枝葉の関係にたつ神社のことだそうです[ 日本大百科全書(小学館) ]。

では、上神谷の別宮八幡宮の本宮は、何処に鎮座されていたのでしょうか。

八幡社が全国的に祀られるのは平安中期以降のことだといわれています。

それが、源氏の守護神としての鎌倉期の勧請に続いていくわけです。

さて、本宮のことですが、案山子は河内の誉田八幡宮ではないかと考えています。

特に資料はありませんが、御分霊を勧請したのは、意外と早い時期だったのかも知れません。

因みに、別宮は「べっく」と発音されていたと思われます。
  1. 2013/06/13(木) 03:03:00|
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桜井神社(その五十二)

紙背文書とは、本紙を作成するために既に用済みの文書の裏面を再利用したために、偶然残った元の文書のことです。

先に挙げた堺市の説明にも、「中・近世の座が持つ経済力や掟などを理解することができる紙背文書が6点貼付されており大変貴重なものです。」とありました。

具体的には、応永10年(1403)に「若松庄中村結衆中」として、高蔵寺から耕地二段百歩を購入し、その契約正文を別宮八幡宮(桜井神社)の宝倉に預け置いたという記録が残されています(中村結鎮御頭次第紙背文書)。

上神谷に設置された若松荘は、「若松荘上条」と「若松荘下条」とに分割されました。

南北朝初期のことです。

そのうちの上条を中心として、「中村」が編成されていたといわれています。

そして、その「中村」が別宮八幡宮の祭礼を執り行ってきました。
  1. 2013/06/12(水) 12:26:58|
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桜井神社(その五十一)

桜井神社関係の古文書は、南北朝時代の争乱や天正年間の兵火のため、その大半が亡失しました。

しかし、なお数百通が現存しています。

その内の「中村結鎮御頭次第」二巻は、他に類例のない貴重な歴史史料だといわれています。

堺市のHPを引用すると、その内容は次のとおりです。

・・「中村結鎮御頭次第」(なかむらけっちんおとうしだい)は、櫻井神社に付属する宮座の頭役を年毎に記したもので、「結鎮」とは、毎年正月に行われた射礼行事のことです。

 本資料は、南北朝時代の正平6年(1351)から江戸時代の元禄12年(1699)までの記録で、中世から近世までの中村結鎮座の変遷を示す根本資料であり、かつ中・近世の座が持つ経済力や掟などを理解することができる紙背文書が6点貼付されており大変貴重なものです。

宮座:村の鎮守祭の構成メンバーをさす。

頭役:行事の世話役のこと。

結鎮:近畿地方の他の場所では、ケチンと呼ばれる。

射礼行事:新年に当たり、的を作り弓矢で射ることによって災厄を払い福を招く儀式。

中世の中村は、和泉国大鳥郡若松荘という荘園(現在の堺市太平寺・大庭寺・豊田・栂・若松台・片蔵・ 泉田中・富蔵・釜室・逆瀬川・畑・鉢ケ峯寺付近に比定される)のうち、かなりの領域(上記のうち、太平寺・大庭寺・鉢ケ峯寺を除いた領域)を占めています。・・
  1. 2013/06/11(火) 22:33:51|
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桜井神社(その五十)

新発知とは仏道に入って間もない人のことです。

「こおどり」の「こしんぼち」さんは、さしずめ「小僧」さんというところでしょうか。

鬼や天狗の間を駆け回りながらの口上、まことに可憐で可愛いというべき所作ぶりです。

一文字笠に紋付で締太鼓を持った太鼓打8人, 加えて鐘打、扇振が新発知を先頭に、鐘と大鼓の囃子で踊る外踊りには典雅な中世の香りが漂います。

国宝・割拝殿をバックにして踊る、この群舞は、もともと雨乞いのおどりから始まったといわれていますが、今では五穀豊穣を祈願する踊りとして、桜井神社へ奉納されています。
  1. 2013/06/11(火) 13:59:01|
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桜井神社(その四十九)

堺市の説明では、「室町時代の風流踊りの影響がうかがえます。」とありました。

ご存知のとおり、風流踊は、正月や孟蘭盆会の芸能として発生したもので、鉦や笛・鼓・太鼓などの拍子物にあわせて、仮装したり、風流の造り物を身につけるなど、さまざまに趣向を凝らした男女の群舞です。

風流踊りは安土桃山時代にいよいよ盛んになり、全国へと伝わっていきました。
造り物中心の「中踊り」と「側踊り」と呼ばれる輪踊りを伴った風流踊の面影は、この「こおどり」にありありと踊り継がれているのではないでしょうか。

もっとも、「こおどり」は男子にだけ参加が認められる神事舞踊に変化しています。

踊りの途中で口上を述べる新発知(しんぼち)の役は小学生が努めているようです。

中踊りを担当する赤鬼神・黒鬼神の2人は、早くから「かんこ」を背負って練習しているとのことです。

「かんこ」とは竹かごに産衣を着せかけ、紙花(ヒメコ)をつけた数十本の竹ひごを挿したもので、風流踊りの古を偲ばせる造り物といえます。

きっと「神篭」からきた言葉でしょう。
  1. 2013/06/10(月) 16:30:54|
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桜井神社(その四十八)


毎年10月に桜井神社へ奉納される国の無形民俗文化財「こおどり」は、古来鉢ケ峯寺氏子が代々国神社に奉納してきた神事舞踊です。

音頭取の歌に合せて、「ひめこ」を背負った赤黒の鬼神と、三尺棒を持った赤黒の天狗四人を中心にして踊りは進行します。

堺市HPでは、「上神谷のこおどり」と題して、次のように解説しています。
 
「上神谷(にわだに)のこおどりは、鉢ケ峯寺(はちがみねじ)の氏神・國神社(くにじんじゃ)の旧暦8月27日の祭りに若衆によって演じられていた踊りです。
 かつて和泉地方に多く見られた雨乞い、雨礼踊りとして行われたものですが、秋祭りの芸能としても毎年行われていたようです。
 鬼が数十本の紙花(ヒメコ)を挿して背負った竹籠や、ここで歌われる踊り歌などに、室町時代の風流踊りの影響がうかがえます。
 國神社が、明治43年(1910年)に片蔵の櫻井神社に合祀されてからは櫻井神社の秋祭りで毎年の10月第1日曜日に演じられています。
 現在、堺こおどり保存会によって地域の小中学生への伝承活動が積極的に行われ、伝統あるこおどりの保存が図られています。」
  1. 2013/06/09(日) 08:45:40|
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桜井神社(その四十七)

桜井神社に保管されている、旧国神社の石燈篭には、「鉢峯山長福寺五所権現、応永19年3月17日勧進良秀」の銘文があります。

鉢峯山長福寺とは、現在の法道寺のことです。

高野山真言宗に属するこの寺院は、八代将軍徳川吉宗の嫡男・長福丸(ながとみまる)が将軍後継となったため法道寺と改められました。

公益社団法人堺観光コンベンション協会の堺観光ガイドによると、碑文の文面からは、応永19年(1412年)長福寺の良秀という僧が費用を集めて五所権現(國神社の別名)に造立寄進した燈籠であったことがわかるそうです。

松平定信の「集古十種」にもある府下有数の古灯で、シンプルな中にも重厚さのある中世石燈籠の代表として大変貴重なものだとのことです。

この石造灯籠は、昭和45年2月20日大阪府指定有形文化財に選定されました。

平成5年3月26日、大阪府、堺市の補助により補修され、現在は桜井神社神具庫に保存されています。

  1. 2013/06/08(土) 08:53:03|
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桜井神社(その四十六)

桜井神社の御神殿には,三体の神像がお祀りされています。

男神像、菩薩形像、明王形像の三体の神像は、もともと鉢ヶ峯寺の國神社に祀られていたものです。

明治43年に國神社が櫻井神社に合祀されたときに移されました。
 
いずれも、鎌倉時代のはじめころの作と考えられています。

これらの像は、ヒノキの一木造りで、かつては彩色が施されていた痕跡があります。

冠と袍を着けた男神像は、仏の姿の神像ではなく貴人の姿をあらわす神像です。

堺市のHPによると、像高は、24.2センチメートル(男神像)、 23.4センチメートル(菩薩形像)、 21.0センチメートル(明王形像)だそうです。

像によっては表面に節(ふし)がみられることから、神木のような何か特別の意味のある木をつかったのではないかとおもわれます、とあります。

昭和57年(1982年)3月31日に、大阪府指定有形文化財に選定されています。
  1. 2013/06/07(金) 00:00:00|
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桜井神社(その四十五)

屯倉とは、本来ヤマト政権の直轄地経営の倉庫などを表した語です。

後には、支配地そのものを指す言葉に変化しました。

ここでは、前者の意味で使いますから、当時の和泉の調である須恵器を収納していた建物と理解してください。

もっとも、旧事紀が言う「茅渟山」と書紀に記された「茅渟山(屯倉)」が同一地名を示すのかどうかは定かではありません。

しかも、茅渟山が山の名前か、それとも地名なのかもはっきりしません。

ただ旧事紀の文脈からすれば、山の名である確率は高いとも云えます。

最後に、茅渟山は、現在の 泉佐野市上之郷辺りではないかという説があることを付け加えておきます。

  1. 2013/06/06(木) 10:25:44|
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桜井神社(その四十四)

安閑天皇元年冬十月庚戌朔甲子条に、「給貺紗手媛。以櫻井屯倉一本云、加貺茅渟山屯倉也」とあります。

天皇が、妃紗手媛(さてひめ)に桜井屯倉をお与えになったが、ある文によると、それに茅渟山屯倉を加えて与えられたという意味です。

では、茅渟山屯倉は和泉国のどの辺りに設けられていたのでしょうか。

中村浩氏は「茅渟山屯倉」の場合,須恵器生産の拠点――泉北丘陵の陶村を把握するため
のミヤケであろうと推測されています。

この説に従うと、この屯倉は泉北丘陵の何処か、ひょっとしたら陶邑の中に在ったのかもしれません。

  1. 2013/06/06(木) 01:43:06|
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