案山子のダンス

戯れに、小説など。照れますな。

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桜井神社(その三十六)

景行天皇55年に鳳凰は千種の森に移り、その地に大鳥社を祀ったと伝えられています。
したがって、国神社は大鳥神社の元社(もとつやしろ)とされています。
国神社は、明治43年2月桜井神社へ合祀されました。

和泉名所図会 巻2-52 鉢峰山閑谷院長福寺 の件に、菅葺社(すがふきしや)について、次の記述があります。

「初メは、当山の艮うしとらの方五町許ばかりにあり。これを襲おそひの峯といふ。むかし、垂仁すいにん天皇八年、天照太神、鳳凰ほうわうと化けして、此襲おそひの峯みねに天降あまくだり給ふ。帝みかど、其跡あとを祀まつり給ひ、日木野ひきの杜もり神郷みわのさとといふ。景行けいかう天皇廿四年、神託しんたくによつて、武内たけうちの宿すく禰ねに命めいして、社を造る。同五十五年、神鳳しんほう千種ちくさの森もりに移うつる。今いまの大鳥社これ也。故に、大鳥明神、初て降臨かうりんの地なるゆへ、こゝに社を建て鎮守ちんしゆとし、今、二王門の前にあり。」
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  1. 2013/05/31(金) 08:40:11|
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桜井神社(その三十五)

桜井神社のもう一つの式内境内社は、国神社です。

桜井神社ご本殿の右脇にお祀りされています。

延喜式神名帳に、「国神社 和泉国 大鳥郡鎮座」とあります。

氏地は、鉢ヶ峯寺村で、明治43年2月桜井神社へ合祀されました。

ご祭神は、天照皇大神・熊野大神・山王大神・金峯大神・白山大神です。

ご由緒によると、垂仁天皇8年、天照大神鳳凰と化して襲峯に降臨され、景行天皇24年ご神託に依り、武内宿禰に命じて社殿を創祀とあります。
  1. 2013/05/30(木) 00:00:58|
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桜井神社(その三十四)

旧社地には、それを示す痕跡は何一つ残っていません。

昭和九年の室戸台風で倒されたという「天神の松」が生き延びていれば、往時を偲ぶよすがともなったことでしょう。

残念の極みです。

ただ、ここで少し気になるのは、ご祭神について「和泉国式神私考」が天八井水神としていることです。

「中臣寿詞(なかとみのよごと)」には、天の八井の水を天の水と言うとあります。

「その下モトより 天の八井ヤイ出でむ こを持ちて天つ水と聞こし食メせと 事依奉りき」
 
天には聖水を生じる八つの井戸があり、天八井水神とは、それを掌る水神様のことなのでしょうか。

まあ、社伝によればご祭神未詳とのことらしいので、「天つ神」をお祀りする「天神さん」でよいのかも知れませんね。
  1. 2013/05/29(水) 00:20:46|
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桜井神社(その三十三)

桜井神社の境内には、式内三社のご祭神を刻んだ碑が建てられています。

それによると山井神社の氏地は栂奥井戸鎮座、「明治四十三年合祀。井泉の神様、旧社地に大樹天神の松あり。昭和九年室戸台風で倒る。」とあります。

旧鎮座地は、桜井神社から石津川を挟んだ谷向こう栂村の丘陵の中腹辺りです。

「井泉の神様」がお祀りしてあった旧村社です。

なお、名所図会に、「今、天神と称す。」と記されていましたが、ここでいう天神とは、菅原道真公を祀るということではなく、「天つ神」の意味だと思われます。
  1. 2013/05/28(火) 11:52:34|
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桜井神社(その三十二)

古事記によると、火の神様加具土命を出産されて陰部を火傷し、病の床にあった伊邪那美命の尿から生まれた神様だと云われています。

「次於尿成神名、彌都波能賣神、」

日本書紀の第二の段では、伊邪那美命がお隠れになる間際に、土神埴山媛神(ハニヤマヒメ)と水神罔象女神を出産されたとしています。

「其且終之間、臥生土神埴山姬及水神罔象女。」
  1. 2013/05/27(月) 01:28:57|
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桜井神社(その三十一)

当社のご本殿の左には、山井神社が鎮座されています。

延喜式神名帳、和泉国大鳥郡の部には、「山井神社,小、鍬靫」とあります。

また、和泉名所図会には「栂村にあり。延喜式内也。今、天神と称す。」と記されています。

ご祭神は、「美豆波乃女神」だと伝えられています。

このお方は、わが国の代表的な水の神様だとされています。

記紀にも登場されている女神様で、古事記では「弥都波能売神(みづはのめのかみ)」、日本書紀では「罔象女神(みつはのめのかみ)」と表記されています。
  1. 2013/05/26(日) 14:03:22|
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桜井神社(その三十)

高良大社の奥宮(奥の院)の案内板には、「古くは高良廟、御神廟と称し、高良の神である武内宿弥の葬所と伝えられていた。」とあります。

このように古くから、高良神は武内宿弥であると信じられて来ましたが、近時の学説はこれを否定するものが多く見られるようになりました。

前掲したもの以外にも、阿曇連の祖・綿津見神説、月天子説、彦火火出見尊説、比売許曽神説等々枚挙に暇もないほどの各説が出揃っています。

とても、案山子如きが対応しきれるものではありません。

それでは、このあたりで桜井神社へ引き返すことにしましょう。
  1. 2013/05/26(日) 02:56:50|
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桜井神社(その二十九)

仲哀9年春2月5日に、天皇は急に具合が悪くなられ、翌日に崩御されました。

御年52歳でした。

神の御言葉をお信じにならなかったため、早世されました。

(ある書によれば、熊襲との戦いで、御身に矢傷を負われたための崩御とも伝えられています。)

神功皇后は武内宿禰大臣と中臣烏賊津連、大三輪大友主君、物部胆昨連、大伴武以連を召して詔を賜りました。

「今、天下はまだ天皇の崩御を知らない。もし百姓がこれを知ったら、怠りが生じるのではなかろうか。」と云われて、直ちに四人の大夫に命じて百寮を統率して、宮中を守らせました。

このように、中臣烏賊津連は、四大夫の筆頭として神功皇后にも重用され、天皇の崩御を世中に秘匿する相談にすら与ったほどの人物ですから、高良神として祀られても不思議ではありません。
  1. 2013/05/25(土) 10:48:11|
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桜井神社(その二十八)

仲哀天皇がお隠れになった際に、神宮皇后のご命令に依り、百寮を率いて、宮中を守る四大夫の一人として、中臣烏賊津連は登場されます。

日本書紀は、その場面を次のように語っています。

足仲彦天皇・ 仲哀天皇

「九年春二月癸卯朔丁未、天皇忽有痛身、而明日崩。時年五十二。卽知、不用神言而早崩。一云、天皇親伐熊襲、中賊矢而崩也。於是、皇后及大臣武內宿禰、匿天皇之喪、不令知天下。則皇后詔大臣及中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部膽咋連・大伴武以連曰、今天下未知天皇之崩。若百姓知之、有懈怠者乎。則命四大夫、領百寮、令守宮中。竊收天皇之屍、付武內宿禰、以從海路遷穴門。而殯于豐浦宮、爲无火殯斂。无火殯斂、此謂褒那之阿餓利。甲子、大臣武內宿禰、自穴門還之、復奏於皇后。是年、由新羅役、以不得葬天皇也。」

「是(ココ)に、皇后と大臣(オホオミ)武内宿禰、天皇の喪を匿(カク)して、天下(アメノシタ)に知らしめず。則(スナワ)ち皇后、大臣と、中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部胆昨連・大伴武以連に詔(ミコトノリ)して曰(ノタマ)はく、「今し天下、未だ天皇の崩りまししことを知らず。若し百姓(オホミタカラ)知らば、懈怠有(オコタリア)らむか」とのたまふ。
則ち四大夫(ヨタリノマエツキミ)に命(ミコトオホ)せて、百寮(モモノツカサ)を領(ヒキ)ゐて、宮中(ミヤノウチ)を守らしめたまふ。窃(ヒソカ)に天皇の屍(ミカバネ)を収め、武内宿禰に付(サヅ)けて、海路(ウミツヂ)より穴門〔アナト〕に遷(ウツ)りて、豊浦宮(トユラノミヤ)に殯(モガリ)し、天火殯斂(ホナシアガリ)をしたまふ。
甲子に、大臣武内宿禰、穴門より遷りて、皇后に復奏(カヘリコトマヲ)す。是の年に、新羅の役(エダチ)に由りて、天皇を葬(ハブ)りまつること得ず。」
  1. 2013/05/24(金) 22:36:14|
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桜井神社(その二十七)

「朝日日本歴史人物事典」によると、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)は、「中臣氏の祖とされる伝説上の人物。『日本書紀』の神功皇后と允恭天皇の時代に名がみえ,『続日本紀』は伊賀都臣と記して中臣氏の先祖とする。神功皇后が神意を問うたとき,神託の判定者として召され,顕現した神の名をただす。神と人の仲介者を意味する中臣の名にふさわしい功績である。」とされています。

氣長足姬尊 神功皇后・三月壬申朔、「皇后選吉日、入齋宮、親爲神主。則命武內宿禰令撫琴。喚中臣烏賊津使主、爲審神者」

ところが、「允恭天皇のときには舎人としてみえ,天皇の命を受け,宮中へ入ることを拒否している女性を迎えるのに成功する。この両者が同一人物とすると,その間7代二百数十年の隔たりがあるので,子孫が先祖と同じ名を名乗ったとも考えられる。しかし5代の天皇に仕えた武内宿禰の例もあり,伝承成立の経緯は別として,往時は同一の人物として認識されていたとすべきだろう。(同辞典)」とあります。

雄朝津間稚子宿禰天皇 允恭天皇・七年冬十二月壬戌朔「於是、天皇不悅。而復勅一舍人中臣烏賦津使主曰、皇后所進之娘子弟姬、喚而不來。汝自往之、召將弟姬以來、必敦賞矣。爰烏賦津使主、承命退之。」
  1. 2013/05/24(金) 10:38:14|
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桜井神社(その二十六)

もちろん、高良大神・非武内宿禰説も存在します。

その根拠の一つは、全国の八幡社に高良大神と武内宿禰命を共にお祀りしている例が多く見られることです。

また、高良神は、藤大臣連保であるという見解も説かれています。

では、藤大臣とは何方というと、神功皇后が三韓征伐の折、筑前四王寺峰に登られ、戦勝を祈願されたとき、住吉神と高良神が示顕され、高良神は名を藤大臣と称し、自ら皇后とともに従軍されたという説話があります。

しかし、藤大臣は住吉明神の化身であるとも言われています。

また、藤大臣は、中臣烏賊津臣と同一人物ではないかと説く向きもあります。
  1. 2013/05/23(木) 09:16:39|
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桜井神社(その二十五)

 
前掲した見解は、高良大神・景行天皇説に基づくものでしたが、高良の神を武内宿禰であるとする古書もかなり多く見られます。

もっとも、高良大社の由緒書きには、武内宿禰のお名前は見当たりません。

ご祭神三座は、中央高良玉垂命、左八幡大神、右住吉大神となっています。

しかし、高良大社を勧請した近隣の高良神社の数十社のご祭神は、武内宿禰となっているようです。

ただ、高良玉垂命が武内宿禰の別名であるとしても、陪神として八幡大神がお祀りされているのには、いささか違和感を覚えます。

全国の八幡社には、高良神が第一陪神としてお祀りされている例が多く、それが高良神・武内宿禰説の根拠の一つと数えられていることもあるからです。
  1. 2013/05/22(水) 10:11:56|
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桜井神社(その二十四)

それでは、高良玉垂命とは、どのようなお方なのでしょうか。

これは、難問です。

まさに諸説が花開いております。

肥前風土記の養父郡亘理郷(やぶぐん・わたりごう)の件に「昔は筑後国御井川の渡瀬甚だ廣く、人畜渡り難し。茲に於いて纒向日代宮(まきむくひしろぐう)の御宇の天皇、巡狩の時、生葉山に就き船山となし、高羅山につき梶山と為し給う」と記されています。

纒向日代宮(まきむくひしろ)の御宇の天皇は、景行天皇のことで、御井川は筑後川、生葉山は水縄山、高羅山は高良山を指します。

また、同書中「基肄郡」の件に「昔は纒向日代宮(まきむくひしろ)の御宇の天皇、巡狩の時筑後国御井郡高羅の行宮に御し、国内を巡覧なし給う」とあります。

このような景行天皇の行跡伝承に基づいて、その後この地方を支配した水沼県主、水沼君(水間君)らが、景行天皇の神霊を「山の神」、「川・泉の神」、合せて筑後国の開拓神、鎮守の神と仰ぎ、高羅山を神霊の依りどころにして、その行宮址、また水沼君の本貫地(筑後国三瀦郡)にそれぞれ祭祀したものである、とする説があります(九州の山と伝説、天本孝志著、葦書房)。
  1. 2013/05/21(火) 09:52:06|
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桜井神社(その二十三)

境内末社のうちでは、私・案山子は「高良神社」に一番惹かれます。

そこで、同社について、少々考えを巡らせてみたいと思います。

「高良神社」のご祭神「高良大神(こうらおおかみ)」は、高良玉垂命とも呼ばれています。

そのお名前は、記紀には見られません。

ところで高良神社といえば、直ぐ久留米の高良大社のことが思い浮かびます。

高良大社は、福岡県久留米市の高良山に鎮座されている「筑後国一宮」で、延喜式神名帳には筑後国三井郡「 高良玉垂命神社」と記されています。

これで、古くは高良玉垂命神社と呼ばれていたことが分かります。
  1. 2013/05/20(月) 12:00:28|
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桜井神社(その二十二)

桜井神社には、式内社であった国神社、山井神社の他に13社の末社がまつられています。
 
社名とご祭神は、八坂神社(須佐之男命)、若宮神社(仁徳天皇)、高良神社(高良大神)、武内神社(武内宿禰)、多賀神社(伊射奈伎命)、玉桂屋神社(玉桂姫命)、住吉神社(住吉大神)、市杵島神社(市杵島姫命)、春日神社(天児屋根命)、菅原神社(菅原道真)、稲荷神社(保食神)、戎神社(蛭子神・事代主命)があります。

なお、氏子の戦死者183柱をお祀りした招魂社も境内に鎮座されています。

これらの諸社のうち、武内神社を除く神社は、明治末期の神社統廃合によって合祀されたものです。

「明治四十一年から四十三年には旧上神谷村内の国神社他九社を合併し・・」(略記)。

山井神社と国神社は桜井神社本殿の左右に、稲荷、戎、招魂の各社は境内にそれぞれ別社として祀られています。

その他の神社は本殿に合祀されています。
  1. 2013/05/19(日) 11:10:28|
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桜井神社(その二十一)

略記によると、
「慶応四年(一八六八)神仏分離に際し、仏像仏具経巻等は、片蔵の金福寺へ移管し、阿弥陀堂は、別所の法華寺へ譲渡した。又鐘楼は、神輿庫に改造し現存している。」とあります。

金福寺、法華寺両寺ともに、それぞれ上記の地に現存しています。

いずれも高野山真言宗の寺院です。

「角川日本地名大辞典」によると、別所は古くは「蕨別所」と呼ばれていたようです。

この地名は、南北朝期から見えるものだそうです。

永和元年7月の蕨別所公文大中臣助明等文書紛失状に,「和泉国大鳥郡蕨別所法蔵寺・法華寺敷地寺領田畠山林荒野等事」という文言が記されているそうです。

ここに「法華寺」の寺名が現れますが、この寺は永承6年に源頼光の五男知光が西之坊など六坊を建てたことに始まるといわれているそうです。

その後、子孫が法蔵寺を建てたということです。

法蔵寺・法華寺両寺は、近衛家の御願寺であったようです。

それにしても、法蔵寺が現存しないのは残念な気がします。
  1. 2013/05/18(土) 16:23:53|
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桜井神社(その二十)

再々度、略記に戻ります。

「兵火にかかり、神宝古記録を焼失し、神領も没収せられ、社頭は一時荒廃した。その後、天正十六年(一五八八)加藤主計守清正の発願により、先ず阿弥陀堂が再建せられ、(最近棟札写し発見)・・」とある条です。

ここで、加藤清正の名が、突然現れて驚かされます。

ところで、清正は、天正十五年ごろ、和泉国の堺周辺の蔵入地代官を務めていた形跡があるそうです。

蔵入地というのは、秀吉の直轄領のことで、清正はその管理を任されていたことになります。

そのような関係で、桜井神社とも何かの係わり合いがあったことも想像できないことはありません。
  1. 2013/05/17(金) 16:29:15|
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桜井神社(その十九)

正慶元年といえば、後醍醐天皇は隠岐に流され、正成は赤坂落城後に逃亡、潜伏中の身の上でした。

ところで、文中で正成は「悪党」と非難されていますが、ここで云われている悪党とは、既存支配体系へ対抗する者という意味です。

この場合の悪とは、力強さを表す言葉で、現在使われている悪とは意味合いが異なっています。

幕府に反旗を翻した正成は、河内の赤坂城に立て篭もり、鎌倉幕府の大軍相手に奮戦し、3ヶ月持ちこたえ後に落城はしますが、まんまと逃亡に成功しています。

なにせ、この時期は持明院統の天下ですから、正成が悪党扱いにされ、それを利用する守護が現れても不思議ではありません。

後に、正成は河内・和泉の守護に任ぜられますから、歴史の皮肉としかいいようがありません。
  1. 2013/05/17(金) 07:25:05|
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桜井神社(その十八)


ここでいう故大宰帥親王とは、後醍醐天皇の皇子世良親王のことで、父君の期待の大きかった方ですが、惜しくも早世されました。

官職は大宰帥。

晩年は臨川寺を居所とされ、所領を同寺に寄進されました。

この文書はその所領を巡ってのトラブルを記したものです。

中でも、正成について述べている部分に興味をひかれます。

「和泉国守護代は、悪党楠兵衛尉がこの若松荘を横領していたという風聞に基づいて、ただ正成所有の土地であるという理由だけで、前年九月頃から荘園の年貢などを奪い、正慶元年六月の今にいたるまで、本荘を知行していて、全く困ったことです。」

この文書は、臨川寺から後伏見上皇の許に提出されたものです。
  1. 2013/05/16(木) 05:52:17|
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桜井神社(その十七)

余談になりますが、この若松荘には、かの楠木正成も関係しています。

天竜寺文書の中に「故大宰帥親王家(こだざいのそちしんのうけ)御遺跡臨川寺領(りんせんじりよう)等目録」という文書があります。

正慶元年(一三三二年)六月という日付のあるこの古文書には、和泉国若松荘に触れた部分があります。

「一、同国(和泉国)若松庄
内大臣僧正道祐(だうゆう)、競望(けいばう)し申すに依(よ)つて、去んぬる元徳三年二月十四日、不慮に綸旨(りんじ)を下さるるの由、承り及ぶの間、已(すで)に仏陀に施入(せにゆう)するの地、非分に御綺(おいろい)の段、歎(なげ)き申すの処(ところ)、同廿五日、綸旨を寺家に成され了(おは)んぬ。しかるに悪党楠兵衛尉、当所を押妨(あうばう)するの由、風聞(ふうぶん)の説に依つて、かの跡と称し、当国の守護御代官、去年九月の比(ころ)より、年貢以下を収納せしむるの条、不便(ふびん)の次第なり。守護御代官、今に当知行(たうちぎやう)、当所領家、故親王家年貢三百石、領家一円の地なり、本家仁和寺勝功徳院」
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  1. 2013/05/15(水) 05:18:25|
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桜井神社(その十六)

織田信長の雑賀攻めは、天正5年2月のことです。

織田勢は山手と浜手の二手にそれぞれ三万の兵を投入して進軍を開始しました。

山手は、佐久間信盛・羽柴秀吉・堀秀政・荒木村重・別所長治・別所重宗の各軍が、信達から風吹峠を越えて根来に進みました。

そして、紀ノ川を渡って東側から雑賀に迫りました。

上神郷はその進路に当ったわけですから、この大軍を迎え撃った鼎三城は、ひとたまりもなく落城したものと思われます。

桜井神社が戦火にかかったのも、この時のことでしょう。

なお、「小谷城郷土館ご案内・小谷城址」が云う「二十三代大夫進種氾の時に織田信長の根来攻めがあり、和泉の神社・仏閣から城主に至るまで総て根来党であったため、小谷城はその時に落城した。天正三年(一五七五)四月二十二日・・」には、時期的な疑問があります。

天正3年といえば、5月の長篠の戦、8月の越前の一向一揆の鎮圧等、信長も忙しく、雑賀攻めどころではなかったはずです。
  1. 2013/05/14(火) 05:14:03|
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桜井神社(その十五)

ところが、前掲の「小谷城郷土館ご案内・小谷城址」には、次のような文章が記されています。

「二十三代大夫進種氾の時に織田信長の根来攻めがあり、和泉の神社・仏閣から城主に至るまで総て根来党であったため、小谷城はその時に落城した。天正三年(一五七五)四月二十二日のことです。城主は城に火をかけ、自らは鉢ヶ峰に逃げて切腹しようとしたが、既に敵が回っていたため、長峰(桜井神社付近)の一本松の所で切腹した。」、

こちらの方が事実だと思われます。

元亀二年に行われた三好氏との合戦は、むしろ小谷氏の勝利で幕を閉じたのではないでしょうか。

小谷勢は出陣前に、桜井神社に詣でて、戦勝を祈願したでしょうから、分捕った三好方の陣鐘を奉納して、戦勝を報告したことと思われます。
  1. 2013/05/13(月) 12:10:46|
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 桜井神社(その十四)

略記には「元亀二年(一五七一)小谷城主小谷甚八郎政種は、三好氏との戦に分捕した陣鐘を奉納し、鐘撞料として御供田を献納した。」とあります。

ところが、栂山城址慰霊碑の碑文は「元亀二年(四百年前)二十二代甚八郎政種のとき、三好氏と戦い遂に敗れて当地の長峯山で討死し三城とも陥落して一族が悉く離散した。」と語っています。

この二文の表現には、大きな齟齬が見られます。
  1. 2013/05/13(月) 07:23:08|
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 桜井神社(その十三)

慰霊碑に記された「上神氏十一代の領主右京亮常儀」は、略記が云う「上神城主上神常儀」と同一人物だと思われます。

ところで、鼎城の一つ小谷城の麓には城主子孫の小谷家が東と西の二つに分かれて現在もお住いです。

東小谷家は「小谷城郷土館」を設置し、開放されています。

その「小谷城郷土館ご案内・小谷城址」には、次のように記されています。

「小谷氏は家伝によると、池禅尼(平清盛の継母)は、源頼朝が平清盛に捕らえられ、殺されそうになったとき、幼少で可哀相だと言って命乞いをし、頼朝を伊豆に流し、義経を鞍馬寺に送った。その後、月日は流れ、頼朝・義経が成人して、京に攻め入り、平家一門を西国へ走らせた。池禅尼の実子頼盛とその子孫だけは、京に呼び戻し、昔からの平氏の居住地(現在の京都国立博物館から六波羅蜜寺)に住まわせたという。それにつけても、源氏の世の中では、京都に居づらく、仁和寺の寺領である若松荘(堺市大庭寺・大平寺・和田・豊田・栂・片蔵・田中・鉢ヶ峰・冨蔵・釜室・畑・逆瀬川)の地頭として、赴任してまいりました。この地に移ってから、頼晴(池氏、万五郎ともいう)は最初に栂山城を築き上神左近将監政員と名を改めた。」
  1. 2013/05/12(日) 09:49:04|
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桜井神社(その十二)

由緒略記は、「中世武家の尊崇深く、建武四年(一三三七年)上神城主上神常儀は社殿を造営し・」と続けます。

ところで、泉北ニュータウン原山台口バス停脇に、栂山城址の碑が建てられています。

栂城は別名西山城とも呼ばれる山城で、東山城、小谷城と併せて「鼎城」と称され、上神谷周辺の要塞として守りを固めていました。

慰霊碑と名を刻まれた石碑の表面には、「栂の西山城は、正平二年(六百二十四年前)上神氏十一代の領主右京亮常儀が築き一族が豊田の東山城小谷城とこの城に據って摂河泉に勢威を振った。
ところが、元亀二年(四百年前)二十二代甚八郎政種のとき、三好氏と戦い遂に敗れて当地の長峯山で討死し三城とも陥落して一族が悉く離散した。その後遺民等が亡君供養のため、城址に墓碑を建て、また、城山講を営み累代城主の霊を祭って今日まで継続してきた。今回、泉北ニュータウン造成のため墓地の移転を余儀なくせられたので講員一同は祖先の遺志を体し、この機会に墓地を整備すると共に上神領主累代碑を建て、いっそう供養を保存に努める事となった。」という碑文が残されています。
  1. 2013/05/11(土) 10:51:31|
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桜井神社(その十一)

朝廷は宇佐八幡を鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩の神号を贈りました。

天応元年(781年)のことです。

さらに、本地垂迹思想が広まると、八幡神は僧形で表されるようになり、寺院の守護神として広まっていきました。

一方、平安時代以降、武士の尊崇をあつめて全国に八幡神社が勧請され、その数を増しました。

そして、それに拍車がかかったのが、源頼朝が政権をとった後、鎌倉に鶴岡八幡宮の社殿が造営されてからです。

このようにして、全国各地に八幡社が建立された結果、八幡神は次第に庶民にとっても、最も親しみの深い神様になっていきました。

八幡神の性格も、弓矢の軍神から、病気平癒、治水の神などへと変貌し、土着の鎮守神としての神性を帯びていくことになりました。

桜井神社も、このような過程を経て、上神郷総鎮守として崇めれるようになったのではないでしょうか。
  1. 2013/05/11(土) 06:37:27|
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桜井神社(その十)

八幡神(やはたのかみ)は、清和源氏の氏神として崇敬されましたが、全国の武士からも武神と崇められました。

八幡神は応神天皇(誉田別命)のご神霊とされ、欽明天皇32年(571年)に初めて豊前宇佐の地に示顕されたと伝えられています。

通常、応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神、神功皇后を合わせて八幡三神としてお祀りしています。

比売神とは特定の神を指す言葉ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を意味するものです。

もっとも、玉依姫命や応神天皇の父君である仲哀天皇と共に祀っている神社も多いようです。

当社の場合は、その後例に属します。
  1. 2013/05/10(金) 05:45:34|
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桜井神社(その九)

桜井神社由緒略記は語ります。

「古来、和泉国大鳥郡上神郷の総鎮守として醍醐天皇延喜の制(九六七)には官幣社に列せられた。
歴代皇室の御崇敬厚く、事に当って度度祈願を仰出され、神領として荘田を寄進せられた。中世武家の尊崇深く、建武四年(一三三七)上神城主上神常儀は社殿を造営し、元亀二年(一五七一)小谷城主小谷甚八郎政種は、三好氏との戦に分捕した陣鐘を奉納し、鐘撞料として御供田を献納した。」

西暦967年には、延喜式が施行されました。

当社も官社として認められたわけです。

なお、和泉国内神名帳によると、当社の神階は「従五位上」とされています。

国内神名帳とは、諸国において国司が作成した管国の神社とその神名・神階を記した神名帳のことです。
  1. 2013/05/09(木) 03:30:01|
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桜井神社(その八)

桜井井戸は、桜井神社の前身であるともいわれています。

したがって、この「桜井」は当社の社名の由来とも考えられます。

因みに、奈良県桜井市には、稚桜神社という古社が鎮座していますが、その境内北側には「桜の井」という古い井戸が残されています。

井戸のかたわらには、桜が植えられていたので、そのように呼ばれるようになりました。

なお、桜井の地名は、この『桜の井』からはじまると云われています(桜の井案内板)。

仮に当地の地名の淵源が、これと類似するようなものであれば、社名は地名由来と考えられないことはあり
ません。

そうであれば、当社は創建時より桜井氏の氏神ではなく、上神郷の産土神という性格を有した神社であった可能性もあります

そもそも、この地域一帯は古来、良水に恵まれた水耕地として知られています。

当社本来のご祭神が、水神であっても不思議はありません。

水神は田の神と結びつきます。

田の神と結びついた水神は、用水路沿いに祀られていることが多いといわれています。

当社が妙見川に接して鎮座されているのも、決して偶然とは思えなくなってきました。

  1. 2013/05/08(水) 06:24:03|
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桜井神社(その七)

桜井神社の神域は妙見川の流れに接していますが、その川の西岸に「桜井古跡」があります。

小振りな鳥居の奥には、生垣に囲まれた井戸がひっそりと置かれています。

鳥居の傍らには、説明板が佇んでいます。

「桜井井戸と呼ばれ、悠久の昔より桜井神社御祭神に深い縁故を有し、古来夏祭りに御神幸あり、和泉名所図会にも登載の古跡である。
 
常に清水湧きだして枯渇することがなかったが、明治十八年(1885)の大洪水により河川氾濫して埋没、大正四年(1915)御大典記念に三十年ぶりに復活、さらに平成元年(1989)妙見川拡幅、宮橋架け替え工事の竣工により、整備保存されたが、井戸は現存しない。」
  1. 2013/05/07(火) 01:21:23|
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