案山子のダンス

戯れに、小説など。照れますな。

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多治速比売神社(その七十七)

最後は蔵王権現ですが、そもそも権現とは、仏が神の形を借りて現れた仮の姿であるとされています。

つまり、権現とは本地垂迹思想による神号ということになります。

ところで、蔵王権現は修験道の本尊として尊崇されていますが、これは役行者が金峰山で修行中に感得したものだと伝えられています。

釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊の化身であり、蔵王堂には、左尊(弥勒菩薩)、中尊(釈迦如来)、

右尊(千手観音菩薩)としてお祀りされています。

しかし、明治の神仏分離令で権現社や権現宮の多くが廃止され、「権現」の神号や修験道が一時禁止されるという受難の途を辿ることになりました。

多治速比売神社のご祭神から、蔵王権現が姿を消されたのは、この時期のことかもしれません。

少々、残念な気がします。
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  1. 2013/04/30(火) 15:36:19|
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多治速比売神社(その七十六)

辞書によると、大自在天とは、サンスクリット語Maheśvaraの漢語訳で、ヒンドゥー教のシバ神が、仏教に取り入れられて、その護法神となったものとあります。

なお、菅原道真公の御霊(ごりょう)には、「天満大自在天神」の神号が追贈されていますが、これは御霊を大自在天に習合させたものだとされています。

シバ神といえば、ヒンドゥー教の最高神格ですから、道真公の御霊はそれほど畏怖の的となっていたのでしょう。
  1. 2013/04/30(火) 00:00:00|
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多治速比売神社(その七十五)

それでは、室町時代から祀られていたというご祭神について触れておきましょう。

まず、牛頭天王(ごずてんのう)とは、京都祇園社のご祭神です。

疫病を鎮める強い力をもつ疫病神として信仰されています。

その名のとおり、3尺の牛頭と3尺の赤い角を持った異形の神様です。

もともとは、インドの祇園精舎の守護神といわれていますが、日本に渡来してからは、素戔男尊と習合されて尊崇されることになりました。

『釈日本紀』に引用された『備後国風土記』の逸文によると、昔、北海から南海に嫁取りに訪れた武塔神が旅の途中、日が暮れて宿を求めた際に、蘇民将来は貧しかったけれども、粟柄(あわがら)を敷いて座席をしつらえ,粟飯を献じて心から歓待しましたが、弟の巨旦将来は富み栄えていたのに宿を貸すことを断わりました。

後に、武塔神はその地を再訪しましたが、そのとき、弟将来の妻となっていた蘇民の娘には茅の輪を付けさせ、それを目印として、娘を除く弟将来の一族を滅ぼしたと伝えられています。

武塔神は、みずからを速須佐雄能神だと名乗り、今後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとされています。

この説話にあるように、信仰上、武塔神は牛頭天王と同一神であるとされ、すなわち、牛頭天王はスサノオであるとされています。
  1. 2013/04/29(月) 07:22:28|
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多治速比売神社(その七十四)

さて、ご本殿に戻りますが、多治速比売神社には室町時代の古文書、「高山縁起」が残されています。

その中には、ご祭神について、「中古、日蔵上人が感得した牛頭天王、天満大自在天神、蔵王権現を祀る」と記されているそうです。

日蔵上人は、平安中期の修験僧で、天慶4年金峰山で修法中に息絶え、蔵王菩薩に導かれて金峰山浄土に至りました。

そこで、菅原道真や醍醐天皇に会った後、13日たって蘇生したという伝説に包まれた人物です。

『宇治拾遺物語』巻十一にも、「日蔵上人、吉野山にて鬼にあふ事」という逸話が残されています。

当社も、この日蔵上人に何らかの係わり合いがあるとすれば、天満大自在天神、蔵王権現がお祀りされていたことは合点がいきます。
  1. 2013/04/28(日) 15:17:00|
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多治速比売神社(その七十三)

では、末社のご祭神をざっとお習いしてみましょう。

もちろん、案山子の独断で推量させていただきます。

まず、大神(おおみわ)社については、大物主神。
住吉社は住吉四神。
天照社は天照大神。
八幡社は誉田別尊。
春日社は天児屋根命。
熊野社は家都御子神。
白山社は菊理媛尊。
弁天社は市杵嶋姫命。
水天宮は天御中主神。
稲荷社は倉稲魂命。
後回しになりましたが、
福石社は福石神。
  1. 2013/04/28(日) 02:26:26|
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多治速比売神社(その七十二)

多治速比売神社の境内には、13の末社があります。

本殿の左右に鎮座される坂上社、鴨田社に加えて、大神社、住吉社、天照社、八幡社、春日社、熊野社、白山社、弁天社、稲荷社、福石社、水天宮があり、合わせて荒山宮 (こうぜんのみや)と呼ばれています。

このうち、八幡社は和田村・伏尾村から、弁天社は大庭寺村から、それぞれ合祀されたお社です。

末社とは、その神社の管理下にある小規模な神社のことです。

境内にあるものを境内末社と呼んでいます。

当社には13もの境内末社があり、その中には式内社2社を含むという豪勢な構成を誇っています。
  1. 2013/04/27(土) 21:10:14|
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多治速比売神社(その七十一)

和泉国には意外なほど紀氏の勢力が及んでいてようです。

紀国造系をざっと挙げてみますと、川瀬造、紀直、直田連、大村直、和山守首、和田首等があります。

また、武内宿禰系の紀氏族としては、掃守田首、大家臣、坂本臣、坂本朝臣、紀朝臣、丈部首等が目に付きます。

これだけの紀氏が揃っていれば、祖神武内宿禰命をご祭神とする神社があっても何の不思議もありません。

もっとも、武内宿禰命をご祭神とすると、社名との違和感は免れません。

しかし、この場合の社名は、太平寺郷鴨田という地名由来のものとも考えられます。
  1. 2013/04/27(土) 04:42:35|
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多治速比売神社(その七十)

「巍々」とは、また難しい漢字を使ったものです。

辞書をひくと、(1)高く大きいさま、(2)おごそかで威厳のあるさま、という二つの意味が出てきました。

まあ、どちらの意味にしても、この場所に壮大な伽藍が立ち並んでいた有様が目に浮かぶような気がします。

ところが、その後、火災に見舞われて、七堂伽藍悉く焼失したといわれています。

名所図会は、その有様を荒廃して礎石だけが残っている、と描写しています。

現在の本堂は、大正末期の再建だそうです。

言い伝えによると、このお寺は、紀伊の豪族の祈願寺であったされています。

紀伊国の豪族といえば、紀国造系の紀氏がすぐ思い当たります。

もし、これが事実であるとすれば、鴨田神社にも紀氏が関係していた、と考えられないことはありません。
  1. 2013/04/26(金) 14:02:59|
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多治速比売神社(その六十九)


以上述べましたように、武内宿禰命は紀氏の祖ということになりますが、命は紀伊国造家とも深い繋がりを持たれています。

ところで話は変わりますが、太平寺には安国山太平寺という古刹が現存しています。

例の和泉名所図会巻二には、このお寺について次のように記しています。

「大平寺村にあり。初メは行基菩薩開創(かいさう)して、諸堂巍々(ぎぎ)たり。荒(くはう)廃(はい)して、旧(きう)礎(そ)存(そん)せり。今(いま)、真言宗(しんごんしう)の僧寺(じ)職(しよく)す。」
  1. 2013/04/25(木) 03:33:47|
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多治速比売神社(その六十八)

武内宿禰命は、「古事記」によれば、成務天皇から仁徳天皇までの四代の天皇に、「日本書紀」では、景行天皇から仁徳天皇までの五代の天皇に仕えたとされています。

実に300歳を超えるほどの長寿を全うされた人物として知られています。

命は、宇遅彦の子「宇豆彦」の女「宇乃媛」を妃とされて、紀(木)角(き のつの)宿禰を儲けられました。

この方が紀氏の始祖だとされています。
  1. 2013/04/24(水) 12:34:57|
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多治速比売神社(その六十七)

日本書紀によりますと、武内宿禰(たけのうちのすくね)の父君は、第八代孝元天皇の孫にあたる屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)であり、母君は莵道彦(うじひこ)の娘の影媛(かげひめ)とされています。

もっとも、古事記によれば、武内宿禰の父君は、孝元天皇の皇子彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)であり、屋主忍男武雄心命は登場されません。

なお、母君は木国造(きのくにのみやつこ)の祖先宇豆比古(うずひこ)の妹の山下影日売(やましたかげひめ)だといわれています。
  1. 2013/04/23(火) 15:58:10|
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多治速比売神社(その六十六)

鴨田神社のご祭神については、その他に、事代主命、武内宿禰命、大己貴命等が挙げられています。

確かに、事代主命は鴨氏が信仰していた神様ですから、その可能性は考えられます。

また、大己貴命(おおなむちのみこと・大国主命の別名)は、事代主命の父君に当たられる方ですので、やはり鴨氏とはご縁があります。

もっとも、このご三方のうち、最も興味をそそられるのは武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)です。
  1. 2013/04/22(月) 02:18:53|
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多治速比売神社(その六十五)

和泉名所圖會の鴨田神社の件には、「産沙神と仰く。」と書かれています。

産沙神(産土神)とは、その人が産れた土地の守護神のことです。
それは地縁的な信仰ですから、一族の祖神を祀る血縁的信仰の対象である氏神とは異なっています。

ところが、後世に至って、この両者の混同が起こりました。

同じ和泉名所圖會巻二では、「日部神社」の事が記されていますが、そこには、「草(くさ)部(べ)村にあり。延喜式内なり。日(くさ)部(べ)の祖(そ)神(しん)を祭る。今、牛頭天王として産沙神とす。」とあります。

これが、氏神が産土神へと変貌した好例です。

「土人産沙神とす」という表現が当てはまる事例です。

鴨田神社にしても、そのご由緒が時と共に何時しか忘れられて,大平寺村の産土神として、村人の崇敬を集める存在へと変貌して行ったのかも知れません。
  1. 2013/04/21(日) 00:18:11|
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多治速比売神社(その六十四)

現在、住吉大神を祀る住吉神社は全国で2,000社以上に上るとされています。

考えてみれば、それだけの数のお社が全部水辺に鎮座されているとは限りませんよね。

ところで、堺市・和泉市・大阪狭山市にまたがる丘陵地一帯に広がる陶邑窯跡群で生産なされた須恵器は、河川を使用して運搬されたと考えられています。

石津川に注ぐ陶器川の沿岸部では、焼き上げた須恵器を集めた集積場跡らしきものも発掘されています。

船積された須恵器は石津川を下り、やがて茅渟海に至り、そこから各地へ搬送されたことも推定できます。

仮にそうであれば、石津川沿いにあったであろう鴨田神社のご祭神が住吉大神とされたのも頷けないことではありません。

小船に須恵器を山積みにした古代の船乗りたちが、このお社に詣でて、航海の無事を祈念したことも想像できます。
  1. 2013/04/20(土) 10:22:29|
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多治速比売神社(その六十三)

もっとも、交野の住吉神信仰については、磐船神社の巨巌が、饒速日命降臨の船形に似ているところから、それを古来ご神体として崇めてきた当社が、中世に至って、これが海神である住吉神に付会されるようになり、天野川沿いの村々もこれに倣って住吉神を祀ることになったといわれています(交野市史)。

また、上鴨川住吉神社の所在地は、古くから摂津・住吉大社の神領地で、その地から南方一体には、神功皇后の事蹟を伝える住吉神社が多く分布・祭祀されていました。
  1. 2013/04/19(金) 13:42:29|
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多治速比売神社(その六十二)

それにしても、住吉三神という海の神様が、何故、内陸部の太平寺村に鎮座されていたのでしょう。

誰しもが抱く素朴な疑問です。

もっとも、これは他に例のないことではありません。

同じ内陸部である大阪府交野市では、現在でも、磐船神社(私市)、郡津神社(郡津)、星田神社(星田)、天田神社(私市)等のかなり数の神社が住吉神をお祀りしています。

また、兵庫県加東市上鴨川に鎮座される上鴨川住吉神社の例もあります。

なにしろ、このお社は、丹波と播磨との国境近い小山の上にひっそりと佇まれています。
  1. 2013/04/18(木) 22:37:57|
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多治速比売神社(その六十一)

鎌倉時代初期の歌人であり,神道家でもある卜部兼直は「西のうみ 檍(あおき)ケはらの汐路より あらはれ出てし 住吉の神」と詠んでいます

宮崎県宮崎市塩路には、全国の住吉神社の元宮と称される古社があります。

当社は、その「檍ケはら」に係わる神社で、伊弉諾命が黄泉国から戻って来られた後で、禊祓をされた地が当社南の池とされています。

社伝によると、創建は孝安天皇の御代といわれています。

お社が海に近いせいもあり、古代から海の神、航海の安全の神として厚く信仰されてきました。

  1. 2013/04/17(水) 23:47:58|
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多治速比売神社(その六十)

住吉三神とは、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称です。

海の神として、特に航海の神様として船乗りの間で信仰されています。

伊奘諾尊が,黄泉の国の穢れを清めるため、「筑紫の日向(ひむか)の 小戸(おど)の橘(たちばな)の檍原(あわきはら)」で禊をされた際に、水底で身を濯いだときに底筒男命が、水中では中筒男命が、水上では表筒男命が現れたとされています。


日本書紀卷第一神代上

故當滌去吾身之濁穢、則往至筑紫日向小戸橘之檍原、而秡除焉。遂將盪滌身之所汚、乃興言曰、上瀬是太疾、下瀬是太弱、便濯之於中瀬也。因以生神、號曰八十枉津日神。次將矯其枉而生神、號曰神直日神。次大直日神。又沈濯於海底。因以生神、號曰底津少童命。次底筒男命。又潛濯於潮中。因以生神、號曰表中津少童命。次中筒男命。又浮濯於潮上。因以生神、號曰表津少童命。次表筒男命。凡有九神矣。其底筒男命・中筒男命・表筒男命、是卽住吉大神矣
  1. 2013/04/17(水) 05:23:54|
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多治速比売神社(その五十九)

当社のご祭神については、なにしろ「古来定説なし。」とされている程ですから、私、案山子も迷いに迷う次第です。

前にも少し触れましたが、和泉名所圖會(1796)は、このお社について「大平寺村にあり。延喜式内也。今、住吉と称す。産沙神と仰く。」と記しています。

つまり当時、世間では住吉神がご祭神だと信じられていたわけです。

なにしろ名所圖會に取り上げられているほどですから、参拝者の数も相当なものだったのでしょう。

ところで、住吉神といえば、摂津の住吉大社のご祭神、住吉三神として知られています。
  1. 2013/04/16(火) 04:51:00|
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多治速比売神社(その五十八)

もっとも、和田首の本貫地は、和泉国大鳥郡久世村和田と看做したほうが良いのかもしれません。

和田から見れば、鴨神社の旧鎮座地・太平寺鴨田は至近距離に位置しています。

仮に和田首の一族が、鴨神社の創建に係わっていたとしたら、位置的な関係は十分に満たされています。

これは、大村直にも言えることで、その本貫地とされる高蔵寺周辺の地は、鴨田から極近いところにあります。

これらに加えて、和泉国大鳥郡大庭を本貫地とする大庭造も「神魂命の八世の孫、天津麻良命の後なり」と姓氏録和泉国神別に記されていますから、この地方はこれら一族の根拠地であったことが伺えます。

そのため、共通の祖神である「加茂別雷命」を当社にお祀りした可能性は大いに考えられます。
  1. 2013/04/15(月) 11:16:33|
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多治速比売神社(その五十七)

賀茂建角身命は、鴨川を遡られ、「久我の国の北の山基」に至り、その地に定められました。

そして、命は賀茂氏の祖神として、賀茂御祖神社(下鴨神社)にお祀りされています。

さて、鴨田神社のご祭神に戻りますが、この地には、神魂命を祖神と仰ぐ氏族が住まいしていました。
和田首や大村直等です。

和田首(にぎたのおびと)は、和田川の上流付近の和泉国大鳥郡和田郷(にぎたのさと)、現在の大阪府堺市南区美木多上周辺に本おびと 拠を構えていた古代豪族です。
新撰姓氏録を紐解きますと、「神魂命五世孫天道根命之後也」と記されています。

また、大村直(おおむらのあたい)は、和泉国大鳥郡大村郷(現大阪府堺市中区高蔵寺一帯)を本貫地とする豪族ですが、姓氏録によると、「紀直同祖(神魂命子御食持命)、大名草彦命男枳弥都弥命之後也」となっています。
  1. 2013/04/14(日) 10:04:58|
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多治速比売神社(その五十六)

山代河を下り、葛野河と賀茂河との合流する所に至り、賀茂川を見廻して、賀茂建角身命は、「狭くても、石川の清川なり」と言われ、よって、この川は、「石川の瀬見の小川」と称されるようになりました。

このようにして、鴨川の異称が生まれたわけですが、命が、「小さいけれども、石の多い清流だ。」と感想を述べられたので、この川は、命が瀬を見廻わされた石川の小川と呼ばれるようになったのでしょうね。

やがて、この「石川の瀬見の小川」は、歌枕となりました。

その嚆矢として、鴨長明の「石川やせみの小川の清ければ月もながれを尋ねてぞすむ」(新古今集巻十九)が残されています。
  1. 2013/04/13(土) 01:28:56|
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多治速比売神社(その五十五)

ここに描かれているのは、日向国曾の峰に天降った賀茂建角身命が、大和国葛城移り、八咫烏に化身し、神武天皇を大和国に先導し、山代国の岡田の賀茂、山代河へと北上し行き、最終的に「葛野河と賀茂河の会ふ所」に至り、その賀茂河上流の「久我の国の北の山基」に辿り着いたという賀茂(鴨)氏の移住の軌跡にまつわる説話です。
 
いくつかの川や土地の耳慣れぬ古名が登場していますので、少し整理しておきます。

まず、「曾の峯」は「高千穂」、「葛木山」は「大和葛城山」、「山代河」は「木津川」、「葛野河」は「桂川」です。

「山代国の岡田の賀茂」というのは、現在の京都府木津川市加茂町にある「岡田鴨神社」付近のことです。

もっとも、このお社は、以前は現在地より北方の木津川河畔に鎮座されていました。

また、「会ふ所」とは、鴨川と桂川の合流する旧羽束師(はづかし)村の「久我(こが)神社」付近のことだといわれています。

現在の地名は、京都市伏見区久我森の宮町です。

最後に、鴨川上流の「久我の国の北の山基」ですが、これは山城国愛宕(おたぎ)郡加茂を指し、現在の京都市北区の久我神社付近も含まれていると考えられています。
  1. 2013/04/11(木) 16:41:25|
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多治速比売神社(その五十四)

脇道に逸れ過ぎました。

本道に戻ることにしましょう。

釈日本紀が引用する山城国風土記逸文には、『可茂の社。可茂と称(い)ふは、日向(ひむか)の曽の峯(たけ)に天降(あも)りましし神、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)。神倭石余比古命(かむやまといはれひこ)の御前(みさき)に立ちまして、大倭の葛木山(かづらきやま)の峯に宿りまし、彼より漸(やくやく)に遷りて、山代国の岡田の賀茂に至りたまひ、山代河の随(まにま)に下りまして、葛野河(かどのがは)と賀茂河との会ふ所に至りまし、賀茂川を見迥(はる)かして、言りたまひしく、「狹小(さ)くあれども、石川の淸川(すみかは)なり」とのりたまひき。仍(よ)りて、名づけて石川の瀬見(せみ)の小川と曰ふ。

彼の川より上りまして、久我の國の北の山基(やまもと)に定(しづ)まりましき。爾の時より、名づけて賀茂と曰ふ。』とあります。
  1. 2013/04/10(水) 08:47:31|
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多治速比売神社(その五十三)

黒い大烏と赤い三本足の烏を安易に同一視した倭名類聚抄に対しては、その後疑問が呈されることになりました。

古事記伝巻十八の中で、本居宣長は『和名抄には「歴天記にいわく、太陽の中には三足の烏がいて、赤い色をしている。思うに、文選でこれを陽烏とある。日本紀でこれを頭八咫烏と言う」とあるのは不審である。』と書き記しました。

また、箋注倭名類聚抄は、その景宿第一の項で、「思うに、八咫烏は天照大神が神武天皇の為に遣わされ、天皇を導いたのである。.これは神鳥である。古事記に載るところと同じである。
源君(源順)が、八咫烏は日中烏也としたのは誤りである。
また、思うに、夜太加良須は、彌尺烏の意味であり,謂、大烏である。」と述べています。

箋注倭名類聚抄は、江戸時代後期に現された、倭妙類聚抄の注釈研究書です。

著者は、狩谷棭斎です。

按、頭八咫烏者、天照大神為神武帝遣以為郷導之神烏也、古事記所載同、源君以為日中烏者誤矣、又按、夜太加良須、彌尺烏之義、謂大烏也、
  1. 2013/04/09(火) 20:02:16|
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多治速比売神社(その五十二)

倭名類聚抄は、『「歴天記」の中には、太陽の中に赤色の三足烏が棲むと書かれているが、いま思案してみると、これは「文選」で言う陽烏のことではないだろうか。また「日本書紀」に書かれた頭八咫烏のことだろうし、「田氏私記」で言う夜太加良須のことでもあろう。』と述べているのです。

三足烏(さんそくう)とは、中国神話に登場する烏で、太陽の中に棲むとされ、それを象徴する鳥だとされています。

歴天記とは、既に失われたわが国の古文書です。

文選(もんせん)とは、南朝梁の昭明太子によって編纂された詩文集のことです。

奈良時代から平安時代前期にかけて、宮廷で行われた「日本書紀」の講筵の際に、その様子を記載した私的記録のことを「日本書紀私記」といいますが、田氏私記はその中の一書です。

なお、日本紀とは、日本書紀のことで、万葉集には双方の書名が併用されています。
  1. 2013/04/09(火) 01:07:24|
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多治速比売神社  (その五十一)

記紀には、八咫烏が三本足の持ち主であるという記述はありません。

「八咫烏即三足烏」説が最初に現れるのは、「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」だといわれています。

この書物は、平安時代中期に当たる承平年間に、源順(みなもとのしたごう)が編纂した辞書です。

その巻第一、天部第一、景宿類第一の項に、陽烏と題して、「歴天記云、日中有三足烏、赤色、今案文選謂之陽烏、日本紀謂之頭八咫烏、田氏私記云、夜太加良須」と記載されています。
  1. 2013/04/07(日) 13:58:41|
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多治速比売神社  (その五十)

八咫烏については、記紀でも触れられています。

まず、古事記 上巻においては、「於是亦、高木大神之命以覺白之、天神御子、自此於奧方莫使入幸。荒神甚多。今自天遣八咫烏。故、其八咫烏引道。從其立後應幸行」と記されています。

次に、日本書紀 巻第三には、「時夜夢、天照大神訓于天皇曰、朕今遣頭八咫烏。宜以爲郷導者。果有頭八咫烏、自空翔降。天皇曰、此烏之來、自叶祥夢」とあります。

なお、咫(あた)というのは古代の長さの単位ですが、ここでいう八咫は単に「大きい」という意味だとされています。

八咫烏は、一般的には三本足のカラスとして知られていますが、これには異論があるようです。
  1. 2013/04/07(日) 01:00:24|
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多治速比売神社(その四十九)


余談になりますが、新撰姓氏録によると、加茂建角身命は神魂命の孫であり、神武東征の折に八咫烏に化身して、先導に当たったとされています。

八咫烏は、「古事記」では高木大神(たかぎのおおみかみ)の、「日本書紀」では天照大神の使神ということになっています。

神武天皇の軍勢が熊野から奥地に進んで、土地の荒ぶる神々の抵抗に会い苦戦をしている際に、高木大神が「今、天より八咫烏を遣わす。この烏の先導によって軍を進めよ」とお告げがあり、その導きによって、ようやく大和国に入ることができました。

一方、日本書紀の記述によると、神武天皇の夢枕に天照大神が立たれて、「八咫烏を遣わす」と告げられたとされています。


新撰姓氏録・「山城国 神別 天神 鴨県主」

神日本磐余彦天皇[謚神武。]欲向中洲之時。山中嶮絶。跋渉失路。於是。神魂命孫鴨建津之身命。化如大烏翔飛奉導。遂達中洲。天皇嘉其有功。特厚褒賞。天八咫烏之号。従此始也。
  1. 2013/04/06(土) 02:27:03|
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多治速比売神社(その四十八)

その子が成人すると、外祖父(おほぢ)の建角身命は、八尋屋(広大な屋敷)を造り、八戸(やと)の扉を竪(た)て、八腹の酒を醸(か)んで、八百万の神たちを集めて、七日七夜の宴会を催されました。

それから、子に語って申されました。

「お前の父と思う人に、この酒を差し上げなさい。」
と仰ると、子は酒坏を捧げ持って,天に向かって祭ろうと思って、屋根の甍を突き破り、天に昇っていってしまいました。

そこで、外祖父の名前に因んで、「可茂別雷命」と名づけました。

いわゆる丹塗矢は、乙訓郡の社にお祀りされている火雷神(ほのいかつちのかみ)でした。


賀茂建角身命、丹波の國の神野の神伊可古夜日女にみ娶(あ)ひて生みませるみ子、名を玉依日子と曰ひ、次を玉依日賣と曰ふ。玉依日賣、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃(すなは)ち取りて、床の邊に插し置き、遂に孕みて男子を生みき。人と成る時に至りて、外祖父(おほぢ)、建角身命、八尋屋を造り、八戸(やと)の扉を堅(た)て、八腹の酒を醸(か)みて、神集へ集へて、七日七夜楽遊したまひて、然して子と語らひて言(の)りたまひしく、「汝の父と思はむ人に此の酒を飲ましめよ」とのりたまへば、やがて酒杯(さかずき)を挙(ささ)げて、天(さき)に向きて祭らむと為(おも)ひ、屋の甍を分け穿(うが)ちて天に升(のぼ)りき。乃ち、外祖父のみ名に因りて、可茂別雷命(かもわけいかつちのみこと)と號(なづ)く。謂はゆる丹塗矢は、乙訓の郡の社に坐せる火雷神(ほのいかつちのかみ)なり。
  1. 2013/04/05(金) 07:40:07|
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