案山子のダンス

戯れに、小説など。照れますな。

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多治速比売神社(その四十三)

和泉市仏並町に天王山仏並寺という古刹があります。

寺伝によると、当地に居住した池辺氏の祖先池辺直氷田が蘇我馬子から授けられた仏像2体を、随う尼3人とともに、和泉国横山郷の自宅の近くに仏殿を造って奉安したといわれています。

仏並寺は、この池辺直氷田の営んだ仏殿を起源とするとされています。

さらには、氷田の子徳那(とくな)も、弥勒菩薩・観音菩薩の両尊を並べて奉安したと伝えられています。

このように、仏を並べて安置し、奉安したところより、この寺名が生まれたとされています。

以上の事蹟から考えると、池辺氏の家系は代々の崇仏家であり、坂上神社の創建に係わったとはとうてい判じかねますので、先ずは除外しておきたいと思います。
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  1. 2013/03/31(日) 09:33:46|
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多治速比売神社(その四十二)

日本書紀敏達天皇13年の条にも、池辺直氷田の事績が記されています。
この年、鹿深臣(かふかのおみ)は、百済から弥勒菩薩の石像一体をもたらし、また、佐伯連も、仏像一体を百済から持ち帰りました。
そこで、蘇我馬子は、この2体の仏像を請い受け、これを祀る修行者を探し出すよう、鞍作村主(くらつくりのすぐり)の司馬達等(しめのたつと)と池辺直氷田(いけべのあたいひた)の2人に命じました。
2人は四方に旅した末、播磨国で、高麗から来て還俗した僧・惠便(えべん)を見つけ出し、明日香へ連れて行きました。
惠便は、蘇我馬子の乞いを受けて、百済からきた仏像を祀る導師となりました。
また、司馬達等の娘の嶋を得度し善信尼としました。
さらに、その弟子として、夜菩之女豐女と錦織壼之女石女をそれぞれ禅蔵尼、恵善尼として出家させ、仏の法のままに敬い、馬子の命により、達等は氷田と共に3人の尼の衣食を供しました。
また、邸宅の東の仏殿に招き、法会を行いました。
その折りのことです。
司馬達等の食事の上に舎利が現れたので、それを馬子に奉りました。
馬子が試みに舎利を鉄質中に置き、鉄槌を振って打つと、質と槌はことごとく砕け壊されたが、舎利は毀れませんでした。
さらに、舎利を水中に投ずると、心の願うままに浮き沈みしました。
これによって、馬子、氷田、達等は深く仏法を信じて、修行を怠らなくなりました。


十三年春二月癸巳朔庚子、遣難波吉士木蓮子、使於新羅。遂之任那。秋九月、從百濟來鹿深臣、闕名字。有彌勒石像一軀。佐伯連、闕名字。有佛像一軀。
是歲、蘇我馬子宿禰、請其佛像二軀、乃遣鞍部村主司馬達等・池邊直氷田、使於四方、訪覓修行者。於是、唯於播磨國、得僧還俗者。名高麗惠便。大臣乃以爲師。令度司馬達等女嶋。曰善信尼。年十一歲。又度善信尼弟子二人。其一、漢人夜菩之女豐女、名曰禪藏尼。其二、錦織壼之女石女、名曰惠善尼。壼、此云都苻。馬子獨依佛法、崇敬三尼。乃以三尼、付氷田直與達等、令供衣食。經營佛殿於宅東方、安置彌勒石像。屈請三尼、大會設齋。此時、達等得佛舍利於齋食上。卽以舍利、獻於馬子宿禰。馬子宿禰、試以舍利、置鐵質中、振鐵鎚打。其質與鎚、悉被摧壤。而舍利不可摧毀。又投舍利於水、舍利隨心所願、浮沈於水。由是、馬子宿禰・池邊氷田・司馬達等、深信佛法、修行不懈。
  1. 2013/03/30(土) 15:57:17|
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多治速比売神社(その四十一)


「日本霊異記」上巻第五には、池辺直氷田は、わが国最初の仏工として描かれています。

敏達天皇の時代のことです。

和泉国の海中に奇瑞が起こりました。

楽器の音が聞こえ、それは笛、筝、琴、箜篌(くご)等の音に思えました。

時には、雷の轟く音にも聞こえました。

昼は鳴り響き、夜は輝きました。

光り輝くものは東を指して流れていきました。

その噂を聞いて、大部連屋栖古(おおとものむらじやすこ)が奏上しました。

天皇は、黙ったまま、お信じになりませんでした。

さらに皇后(後の推古帝)に申し上げますと、お聞き入れになり、

「汝が行きて確かめよ」と命じられました。

詔を奉じて、行って見ると、正に噂どおりでした。

雷に打たれた楠が流れ着いていました

都に帰った、連は「高脚(たかあし)の浜に流れ着いていました。あの楠で仏像を造ることをお許しください。」と申し上げたところ、皇后は、「願いどおりにするがよい」とお許しになりました。

連は大いに喜び、嶋大臣(しまのおおきみ・蘇我馬子)にも伝えると、大臣もまた喜ばれました。

池辺直氷田(いけのべのあたいひた)に依頼して仏を彫り、菩薩三柱を造り、それを豊浦の堂に安置しました。

ひとびとは、その御仏を仰ぎ敬いました。

敏達天皇之代,和泉國海中,有樂器之音聲.如笛箏琴箜篌等聲.或如雷振動.晝鳴夜耀,指東而流.大部-屋栖古連公聞奏.天皇嘿然不信.更奏皇后.聞之詔連公曰: 「汝往看之.」奏詔往看,實如聞,有當霹靂之楠矣.還上奏之: 「泊乎高腳濱.今屋栖.伏願,應造佛像焉.」皇后詔: 「宜依所願也.」連公奉詔,大喜,告嶋大臣,以傳詔命.大臣亦喜,請池邊直-冰田雕佛,造菩薩三軀像,居于豐浦堂,以諸人仰敬.然,
  1. 2013/03/29(金) 14:37:46|
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多治速比売神社(その四十)

新撰姓氏録諸蕃の項によると、和泉国には、阿智王の後裔と称する三氏族がいたことになります。

池辺直、火撫直、栗栖直です。

池辺直は、「坂上大宿禰同祖。阿智王の後裔なり」とあります。

この氏族中では、池辺直氷田(いけのべのあたいひた)という有名人が存在します。

この人物は、日本霊異記や日本書紀の中で、その活躍ぶりが描かれています。

和泉国 諸蕃 漢 池辺直 直 坂上大宿祢同祖 阿智王之後也    
和泉国 諸蕃 漢 火撫直 直  後漢霊帝四世孫阿智王之後也    
和泉国 諸蕃 漢 栗栖直 直 火撫直同祖 阿智王之後也
  1. 2013/03/28(木) 15:20:28|
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多治速比売神社(その三十九)

「式内社調査報告」という皇學館大學出版部から刊行された大部の学術書があります。

式内社研究会が編纂に係った書籍です。

その中では、坂上社について、
「当社が坂上氏の祖神である阿知使主を祭神とするならば、これは渡来人中の漢氏の氏神でもあり、その氏人の一部は陶器生産にも励んだことであろう。」
と記されているそうです。

この記述に従えば、坂上氏以外の漢氏の末裔が当社を創建した可能性も否定できません。
  1. 2013/03/27(水) 07:37:14|
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多治速比売神社(その三十八)

とにかく、坂上社のご祭神が「阿智使主」であるとする論拠は、その社名から由来しているという点だけです。

つまり、坂上氏由緒の者が、その祖神をお祀りしたのが、当社だということになります。

ところで、坂上氏の本拠地は大和国添上郡坂上里です。

現在の奈良市法華寺町西北付近に当たるとされています。

では、なぜ和泉国大鳥郡平井村に坂上氏の祖神を祀る神社が鎮座していたのか、それが最大の疑問として残ります。
  1. 2013/03/26(火) 06:50:31|
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多治速比売神社(その三十七)

新撰姓氏禄には、「右京諸蕃 坂上大宿禰 後漢霊帝男の延王より出る也」と記録されています。

「諸蕃 漢 坂上大宿祢 大宿祢   出自後漢霊帝男延王也」

また、続日本紀・桓武天皇延歴4年6月の条には、「従三位右衛士督兼下総守の坂上大忌寸苅田麻呂(さかのえのおおいみきかりたまろ)らが、「臣等は、もと後漢霊帝の曾孫・阿智使主の後裔です」と上表した、という記事が載っています。

彼らは、宿禰の姓を賜るよう申し出て、結局、その目的を達しています。

「右衛士督従三位兼下総守坂上大忌寸苅田麻呂等上表言。臣等本是後漢霊帝之曾孫阿智王之後也。」
  1. 2013/03/25(月) 02:13:50|
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多治速比売神社(その三十六)

阿智使主については、日本書紀・応神天皇廿年秋九月の条に、「倭漢直祖阿知使主、其子都加使主、並率己之黨類十七縣、而來歸焉」と記述されています。

これは、「応神天皇二十年、倭漢直の祖阿智使主、其の子都加使主は、己が十七県の人夫を率て、化に帰せり」という意味です。 

このように、倭漢(東漢)氏の祖は、百済(安羅国)から渡来した阿智使主の後裔で、東韓氏とは、大和の檜隈(ひのくま)に住み着いた技術者集団の総称です。

倭漢、東漢いずれも「やまとのあや」と読みます。

東漢と記すのは、河内を本拠とした西漢氏(かわちのあやうじ)と区別するためです。

東漢氏から出た氏族の一つに坂上氏があります。

代表的な人物に、征夷大将軍坂上田村麻呂がいます。
  1. 2013/03/24(日) 06:20:48|
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多治速比売神社(その三十五)

坂上(さかのうへ)神社は、多治速比売神社の左殿として鎮座されています。

このお社は、明治43年1月、大阪府泉北郡久世村大字平井字南垣外から遷座・合祀されました。

ご祭神については、不詳とする資料が多いようですが、阿智使主だとする説も見られます。

阿智使主(あちのおみ)は、応神天皇時代の百済系渡来人で、東漢氏の祖と言われている人物です。
  1. 2013/03/23(土) 06:43:28|
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多治速比売神社(その三十四)

これらの神社群が「荒山宮」と呼ばれるのは、その地名に由来しています。

当社が、和泉国大鳥郡久世村大字和田字荒山に鎮座していたからです。

氏地は、久世村大字和田・平井・伏尾・北上神村大字大庭寺・大平寺・小代と広がっていましたから、多くの氏子たちからは、きっと「荒山はん」として慕われていたことでしょう。

「荒山」は「高山」とも記されていますが、これは当て字ではないでしょうか。
  1. 2013/03/22(金) 07:11:13|
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多治速比売神社(その三十三)

当社の境内には、坂上神社、鴨田神社、大神社、住吉社、天照社、八幡社、春日社、熊野社、白山社、弁天社、稲荷社、福石社、水天宮の13の末社があります。

これらを合わせて荒山宮(こうぜんのみや・こうぜんぐう)とよばれています。

本殿の左右に鎮座する坂上神社、鴨田神社は式内社であり、明治末期の神社合祀に際して、それぞれ平井村、太平寺村から合祀されました。

また、八幡社は和田村・伏尾村から、弁天社は大庭寺村から、それぞれ合祀されました
  1. 2013/03/22(金) 00:00:00|
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多治速比売神社(その三十二)

当社の本殿は、天井裏の墨書や棟札の記載などから、天文10年(1541年)に再建されたものと分かっています。

室町時代の後期、ちょうど武田信玄が父信虎を追放して,武田家の家督を継いだ年に当たります。

棟札(むなふだ)というのは、棟上げの際に、施主や工匠の名前、年月日、築造・修理の目的などを記して棟木や梁に打ちつける札のことです。

本殿の構造は、桁行(けたゆき)三間 梁間(はりま)一間 一重 入母屋造檜皮葺(ひわだぶき)です。

正面が三間、奥行一間、檜皮葺の入母屋造の一重屋根という規模・構造の建物です。

ご本殿は、昭和24年2月18日に国の重要文化財の指定を受けています。

なお、「附 棟札一枚(つけたりむなふだ1枚) 昭和40年2月5日指定」とありますから、改築時に見つかった貴重な棟札が付随して重文指定されたのでしょうね。
  1. 2013/03/21(木) 05:41:24|
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多治速比売神社(その三十一)

本殿の正面には、千鳥破風 (ちどりはふ)があります。

大きな向拝には、軒唐破風 (のきからはふ)が配されています。

破風というのは、切妻造や入母屋造の屋根の妻側の三角部分のことをいいます。

妻側とは棟の端の部分のことです。

千鳥破風とは、屋根の斜面に設けた小さな三角形の破風のことで、狐格子(きつねごうし)がはめ込まれています。

単に装飾用だけではなく、通風という実用性も兼ね備えています。

軒唐破風は、唐破風の一種で、軒先の一部に装飾用につけられたもののことです。

唐破風は、中央部が盛り上がり、両端部が反り返った曲線状の破風です。

日本独自の破風だといわれています。
  1. 2013/03/20(水) 04:19:10|
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多治速比売神社(その三十)

当社のご本殿は、三間社入母屋造の様式で建てられています。

三間社とは、神社本殿の母屋(もや)正面の柱間が三つある形式のもののことです。

入母屋というのは、屋根の上の部分は切妻造で、下が寄棟造となる構造を持っている建物です。

わが国では古来、最も格式が高い形式として重用されてきましから、神社建築にも用いられているのです。
  1. 2013/03/19(火) 08:07:34|
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多治速比売神社(その二十九)

次は、内法長押です。

長押は、日本建築なら何処でも見られる部材です。

柱の上部などを水平方向につなぎ、構造を補強するために使用されています。

しかし、時代を下るとともに、構造材としての意味は失われ、もっぱら装飾的なものに変化していきました。

内法長押は、鴨居の上に設けられた長押のことで、住宅では普通、欄間と鴨居に挟まれたところに位置しています。

もちろん、神社建築でも用いられており、窓や出入り口などの開口部の上に設けられています。
  1. 2013/03/18(月) 06:20:44|
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多治速比売神社(その二十八)

もう少し説明を続けます。

まず、蟇股です。

これは「かえるまた」と読み、その読みどおり,蛙が股を広げたような格好からきた言葉です。

本来は、構造材として、加重を支える役目を果たしてきましたが、時代とともに、その性質が失われて、次第に装飾化していきました。

室町時代を過ぎようとする頃から、それが加速して、桃山に入るとやたら巨大化したり、過剰な彫刻が施されるようになりました。

当社のものは、その過渡期に製作されたものと思われます。

もっとも、当社のご祭神は女神様ですから、華やかものはよくお似合いです。
  1. 2013/03/17(日) 09:49:22|
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多治速比売神社(その二十七)

当社の本殿は、天文年間に再建された建造物です。

本殿は入母屋造で、向拝柱(ごはいばしら)上部、内法長押の蟇股には、それぞれ龍・雲・浪・牡丹・唐獅子・宝珠、桐・鯱・山茶花・松・幣・鯉・滝などの彫刻が施され、彩色されています。

なかでも、向拝柱の手挟(たばさみ)の芭蕉に蟷螂の透彫は、全国的にも非常に珍しいものだといわれています。

神社建築の専門用語が沢山出てきましたので、少し整理しておきましょう。

まず、向拝柱とは、向拝正面の角柱のことです

向拝とは、本殿や拝殿の入り口に庇 が張り出した部分のことをいいます。

次に、手挟とは、神社建築などで、向拝柱の斗栱と垂木との間に取り付けられた板のことです。

ここに、斗栱という見慣れない文字が姿を現していますが、これは「斗(ます)」と「肘木」とを組み合わせたもののことで、軒の荷重を支える目的で使用されています。
  1. 2013/03/16(土) 09:00:21|
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多治速比売神社(その二十六)

当社のご祭神・橘仲皇女説にも弱点はあります。

これは、前でも触れましたが、創建時期の問題です。

社伝によれば、多治速比売神社の創建は、宣化天皇・西暦で530年頃とありますが、これでは、橘仲皇女はご存命であり、肝心の丹治比氏は、まだこの世には存在していません。

加えて、神社所在地の問題もあります。

丹比神社が鎮座される堺市美原区多治井から、多治速比売神社のある同じ堺市の南区宮山台までは、直線距離にして約7キロもあります。

これほど離れた辺鄙の地に、祖神をお祀りする理由が今のところ不明です。
  1. 2013/03/15(金) 11:27:51|
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多治速比売神社(その二十五)

それにしても、解せないのは、何故、「丹比神社」に橘仲皇女がお祀りされていないのでしょうか。

「丹治比氏」にとって尊い先祖として後世まで崇拝されたのであれば、橘仲皇女が夫である宣化天皇と並んで合祀されていたとしても、何の不思議もありません。

そこで考えられることは、橘仲皇女は、既に別の地にお社を建ててお祀りしてあったからではないでしょうか。

それが、現在の多治速比売神社ではないかと、私、案山子は考えたいのです。
  1. 2013/03/14(木) 07:49:36|
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多治速比売神社(その二十四)

橘仲皇女は、崩御後、宣化天皇陵に合葬されました。

み陵は、日本書紀によると、身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)とされています。

宮内庁により、奈良県橿原市鳥屋町の鳥屋ミサンザイ古墳に治定されています。

書紀宣化天皇4年の条・「四年春二月乙酉朔甲午、天皇崩于檜隈廬入野宮。時年七十三。冬十一月庚戌朔丙寅、葬天皇于大倭國身狹桃花鳥坂上陵。以皇后橘皇女及其孺子、合葬于是陵。」
  1. 2013/03/14(木) 05:37:15|
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多治速比売神社(その二十三)

堺市美原区に、「たじはや本線料金所」という名の、南阪奈有料道路の本線料金所があります。

ここを管理する大阪府道路公社が2007年度に発行したパンフレットの裏面には、実に興味をそそられる記事が掲載されています。

「たじはやの由来」と題された、この記事の一部を引用させていただきます。

『「丹治比氏」は、第28代宣化天皇と橘中皇女との間にできた恵波皇子を祖とし、その孫の多治比古王のときにその名を称したという。この後、「丹治比氏」がこの地で繁栄していくことになる。
 橘中皇女は、「丹治比氏」にとって尊い先祖であり、「たじはやひめ」として後世まで崇拝された。』

なお、恵波皇子とは、上殖葉皇子の古事記による別名です。
  1. 2013/03/13(水) 02:55:36|
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多治速比売神社(その二十二)

多治比氏は、宣化天皇の三世の孫多治比古王を祖とする皇別氏族で、河内国多比郡を本貫としていました。

さらに遡ると、宣化天皇の皇子・上殖葉皇子(かみえはのみこ)に辿りつきます。

上殖葉皇子の母君は、仁賢天皇のお子様である橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)です。

古事記には、橘之中比売命(たちばなのなかつひめのみこと)とあります。

多治速比売神社の社伝が云う、ご祭神の橘姫命とは、どうやらこの方ではないかと思えてきました。

もつとも、ご由緒では、多治速比売神社は、宣化天皇の頃の創建と伝えられているそうですから、年代的には問題がありそうです。
  1. 2013/03/12(火) 07:02:08|
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多治速比売神社(その二十一)

前回、丹比神社のご祭神について記した事は、どうやら誤っていたようです。

当社は、反正天皇の御世に、この地で勢力を誇っていた丹比連が、その祖神を祀ったのが起源といわれているようです。

新撰姓氏録には、河内国の丹比連は「火明命之後也」とありますから、当社のご祭神が「火明命」とされているのは頷けます。

その後、当地の支配は、宣化天皇の流れを汲む多治比氏に移り、彼らの祖神も併祀されたのだそうです。

当社所在地は、反正天皇の丹比柴垣宮の比定地の一つとしても挙げられているほどですから、ご由緒のある瑞歯別命(反正天皇)がお祀りされているのはよく分かります。

なお、当社に合祀されているのは、大山祇命 伊邪那岐命 伊邪那美命 凡河内倭女姫命 菅原道真 宣化天皇 上殖葉皇子 十市王子 多治比古王および多治比眞人です。

以上、訂正してお詫びいたします。
  1. 2013/03/11(月) 05:20:36|
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多治速比売神社(その二十)

多治速比売神社のご祭神の出自については、二三の異説が見受けられます。

しかし、定説というほどのものは見当たりません。

ただ、興味が引かれるのは「丹治比君の祖」とする説です。

堺市美原区多治井に丹比神社というお名前の社が鎮座されています。

当社は、延喜式内社に列する歴史のある神社です。

丹治比君の祖神をお祀りする社として古くから崇敬されてきました。

当初は、丹治比氏の始祖宣下天皇を祀ったとされますが、境内には反正天皇(多遅比端歯別)の産湯井戸の継承があり、現在ではご祭神は瑞齒別命とされています。
  1. 2013/03/09(土) 21:45:27|
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多治速比売神社(その十九)

もっとも、近傍に日本武尊をご祭神とする式内明神大社大鳥神社が鎮座されていることが、多治速比売命を弟橘姫命とする説の根拠になっているようです。

大鳥神社のご祭神は、主祭神が日本武尊で、相殿神が国常立尊(くにとこたちのみこと)と弟橘媛命です。

当社は、和泉国の一宮としても知られていますが、大鳥美波比神社,大鳥北浜神社,大鳥浜神社,大鳥井瀬神社の4社を合わせ大鳥五社明神と呼ばれてきました。

そのうちの一社、大鳥井瀬神社のご祭神はこれも弟橘媛命で、大鳥神社境外摂社として、大鳥、住吉両大社の共用の頓宮の地に祀られています。

このように、はっきりと大鳥神社に弟橘媛命がお祀りされているのにもかかわらず、多治速比売命、弟橘媛命同一神説が唱えられるのは、何やら腑に落ちない気がします。
  1. 2013/03/09(土) 08:38:01|
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多治速比売神社(その十八)

この話を信じると、忍山宿禰は弟橘媛の継父だということになります。

そして、媛がお生まれになったのは、纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)となります。

この都の比定地は、奈良県桜井市穴師周辺とされています。

「実父」の田道間守は、但馬国出石郡の出身で、母のハナタチバナヒメは、「ほつま国」の生まれです。

ほつま国は、ハラミ山 (富士山) を中心とした東海・関東地方が、その国域とされています。

地縁的には、弟橘媛と和泉国大鳥郡との繋がりが、どうにも摑みかねます。
  1. 2013/03/09(土) 00:00:00|
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多治速比売神社(その十七)

前回の文章に若干の注釈を加えておきます。

まず、「モトヒコに御依(みは)を賜わり」は、「モトヒコに貴族としての待遇を許す印しとして官位の御衣を賜わり」という意味です。

次に、「故人(ムカシノヒト)の魂(たま)の緒(お)を止めているので、」は、「この娘は、亡くなったタジマモリの御霊の緒を留めているので・・つまり、亡き父の面影を宿しているので」と述べられたということです。

最後に「深いゆかり(エミシ)の前例(ためし)」とは、オトタチバナヒメが後年、オウス、つまり日本武尊の妻となり、悲劇的な最期を遂げる運命の本縁が、このとき既に兆していたという意味合いでしょう。
  1. 2013/03/08(金) 05:48:10|
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多治速比売神社(その十六)

垂仁天皇の死を嘆き悲しみ、後を追ってタジマモリは亡くなりましたが、「ホツマツタヱ」が伝えたかったその後の経緯、すなわち前掲の文(アヤ)の大意は次のようなものだったのでしょう。

「実はタジマモリは遺書を東宮(後の景行天皇)に残していました。
皇子(みこ)はこの文をご覧になって、「橘君(カグキミ)の娘ハナタチバナ姫は、彼(タジマモリ)の妻である。

早速、オシヤマスクネを彼の地に向かわせ、タチバナモトヒコ(橘元彦)親子を京に呼び寄せよ」とお申しつけになりました。

やがて、父モトヒコと共に娘のハナタチバナ姫が京へ上ってきました。

皇子(みこ)は大変喜ばれて父子を迎えると、モトヒコに御依(みは)を賜わり、タジマモリの喪を勤めさせられました。

五月(サツキ)の末に、ハナタチバナ姫が産んだ女児に君は、「故人(ムカシノヒト)の魂(たま)の緒(お)を止めているので、オトタチバナ姫と名付けよう」と仰り、名付け親となられました。

ハナタチバナ姫には、生前のタジマモリに似ているオシヤマに母子共に嫁がせて、深き恵みを垂れ給いました。

これが、深いゆかり(エミシ)の前例(ためし)となりました。」
  1. 2013/03/07(木) 19:27:08|
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多治速比売神社(その十五)

「ほつまつたえ」のその部分を、漢文読み下しにすれば下記のようになります。

「遺し文 御子見給ひて 橘君が」、
「ハナタチバナは 故が妻」、
「オシヤマ遣りて 呼ばしむる」、
「父モトヒコと 上り来る」、
「御子喜びて モトヒコに」、
「許し衣賜ひ 喪を務む」。
「ハナタチバナが 五月末」、
「夜半に生む子に 詔」、
「昔の人の 緒を留む」、
「ヲトタチバナと 名を賜ひ」、
「似たる姿の オシヤマに」、
「婚ぐ母子も 御恵み」、
「深き縁りの 試しなるかな」。

流石に五七調だけあって、リズム感があります。
  1. 2013/03/07(木) 08:48:40|
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多治速比売神社(その十四)

穗積氏は、大倭国山辺郡穂積邑(現在の奈良県天理市前栽の付近)が発祥の地といわれています。

弟橘媛もこの地でお生まれになったのでしょうね。

話が突然変わるようで恐縮ですが、「ほつまつたえ」という特殊な古文書が伝えられています。

この文書が何故、特殊かというと、神代文字のひとつといわれる「ヲシテ」を使用して、五七調の長歌体で記されているからです。

本書は、全40アヤで構成されていますが、その「人の巻37 とりあわせたちはなのあや【鶏合せ 橘の文】」のところで、弟橘媛のことが触れられています。

そこでは、弟橘媛の父親は,田道間守だとされています。

11代垂仁天皇の命により、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めて常世の国に渡ったという、あの人物の女だというのです。
  1. 2013/03/06(水) 02:33:20|
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