案山子のダンス

戯れに、小説など。照れますな。

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多治速比売神社(その七)

余談になりますが、ここで登場する虚空津日高は別名の多い神様です。

もともとは、火遠理命(ほおりのみこと)とお呼びする方で、別名を 天津日高日子穂穂手見命(あまつひこ(たか)ひこほほでみのみこと)、日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)、虚空津日高(そらつひこ)といいます。

天孫瓊瓊杵(ににぎ)尊と山神の女の木花開耶姫(このはなのさくやびめ)との間に生まれたお子です。

狩猟が得意ため、山佐知毘古(ヤマサチビコ)とも呼ばれていました。

あの「海幸彦と山幸彦の説話」に登場する神様です。
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  1. 2013/02/28(木) 21:36:15|
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多治速比売神社(その六)

弟橘媛は、浪の上に菅畳八重、皮畳八重、絁畳八重を敷いて、その上に座って入水しました。

絁畳とは、絹糸で織った敷物のことです。

この八重の敷物の上に座る所作から、火遠理命が、海神の女、豊玉毘売を娶る際のシーンが直ちに連想されます。

「爾海神自出見、云此人者、天津日高之御子、虛空津日高矣。卽於內率入而、美智皮之疊敷八重、亦絁疊八重敷其上、坐其上而、具百取机代物、爲御饗、卽令婚其女豐玉毘賣。」

「ここに海の神、自ら出で見て、「この人は天津日高(あまつひこ)の御子、虚空津日高(そらつひこ)ぞ」と云ひて、すなはち内に率(ゐ)て入りて、海驢(みら)の皮の疊八重を敷き、亦糸丿一也疊(きのたたみ)八重をその上に敷き、其の上に坐(ま)せて、百取(ももとり)の机代(つくゑしろ)の物を具(そな)へ、御饗(みあへ)して、すなはち其の女(むすめ)豐玉毘賣を婚(まぐはひ)せしめき。」

つまり、これは弟橘媛が海神に嫁いだことを暗示する場面となるわけです。
  1. 2013/02/28(木) 01:14:57|
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多治速比売神社(その五)

弟橘媛は、尊に向かって云いました。

「今風が吹き,浪が速く、尊の船が沈もうとしているのは、海神の仕業です。尊のお命に代えて、私の賎しい身で償いたいと思います。」

そう言い残した媛は、波を掻き分け、海に身を投じました。

古事記は、この場面を更に華麗に描いています。

「菅疊八重(すがだたみやへ)・皮疊八重・糸丿一也(きぬ)疊八重を波の上に敷きて、その上に下(お)りましき」
  1. 2013/02/27(水) 14:27:12|
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多治速比売神社(その四)

夫である日本武尊の東征に従い、相模から上総に渡ろうとしたとき、風が強くなり、海が荒れ始め、乗船が立ち往生したので、海神の怒りを鎮めるために、尊の身代わりとなって海に身を投じたと伝えられる、弟橘媛の物語です。

海神の怒りは、日本武尊が自ら招いた災いでした。

尊は出発する前に、海を眺め、「これは小さな海だ。ひと跳びで渡れそうだ。」と高言したのです。

ところが、海上に出ると、風は速くなり、波は高くなり、船は漂い始め、とても上総に渡るどころではなくなりました。

浦賀水道の恐ろしさを見くびっていた日本武尊もさぞ狼狽したことでしょう。
  1. 2013/02/27(水) 03:49:16|
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多治速比売神社(その三)

日本書紀によれば、日本武尊の妃は、弟橘媛命とされていますが、先代旧事本紀には橘媛とも記されています。

日本書紀の記述では、弟橘媛命は穂積氏忍山宿禰の女で、尊との間に稚武彦王を儲けました。

彼女の壮烈な最期について、日本書紀は次のように記しています。

「亦進(いでます)相模(さがむ)欲往(みたす)上總(かみつふさ) 望(おせる)海高言(ことあげす)曰 是小(ちひさき)海(うみ)耳(のみ) 可立跳(たちをどる)渡 乃至于海中(わたなか)暴風(あらきかぜ)忽(たちまち)起 王船(みふね)漂蕩(ただよふ) 而不可渡(えわたらず) 時有從王(みこ)之妾(をみな) 曰弟橘媛(おとたちばなひめ) 穗積氏(ほづみのうぢ)忍山宿禰(おしやまのすくね)之女(むすめ)也 啓(まうす)王(みこ)曰 今風起(ふく)浪泌(はやし) 王船欲沒 是必(ふつく)海神(わたつみ)心(しわざ)也 願賤妾(やつこ)之身 贖(かへる)王之命(おほみいのち)而入海 言訖(まうすことをはる) 乃披(おしわく)瀾(なみ)入之 暴風即止 船(みふね)得著(つく)岸 故時人號其海曰馳水(はしるみず)也」
  1. 2013/02/26(火) 22:07:45|
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多治速比売神社(その二)

当社のご祭神は、社名から明らかなように、「多治速比売命」です。

ご本殿には、素盞鳴尊と菅原道真公が併祀されています。

社頭の掲示板には、「多治速比売命は、日本武尊妃と考えられます。」とあります。

社伝によれば、多治速比売命とは、日本武尊の妃・橘姫命が転訛 したものとされています。
  1. 2013/02/26(火) 10:10:01|
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多治速比売神社(その一)

堺市南区宮山台に、多治速比売神社というお社が鎮座されています。

当社は、和泉国大鳥郡の延喜式内社24座のひとつです。

ご由緒によると、西暦530年頃の御創建と伝えられているようです。

明治初年までは総福寺と併存した神宮寺であったが、神仏分離の際、神社のみとなったとあります。

本殿や拝殿、その他の殆どの建物が鮮やかな朱塗りのため、参拝客に華麗な印象を振りまく、この神社の創建に関する資料は少なく、「創建の年月詳ならず」が定説になっているようです。
  1. 2013/02/25(月) 21:58:46|
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陶荒田神社(その三十)

ところで、この社は現在、火雷神社(ホノイカヅチ)と称していますが、九条家本や金剛寺本の延喜式では、社名は「大電神社」とあり、「イナヒカリノ」と読ませています。
 
確かに、「火」と「大」,「雷」と「電」は、誤写しやすい文字です。

しかし、2字とも誤写されるのも珍しい例といえます。

なお、「国史大系」では「火電神社」と記し、「いなひかり」と読みが振られているようです。

これに従ったのでしょうか、大阪府神社史資料(1933)でも「火電神社」とされているようです。

江戸前期ごろから、当社は「愛宕地蔵権現」・「愛宕大権現」と呼ばれていたといいますから、この頃、愛宕信仰が持ち込まれたものと考えられます。

愛宕信仰は、火伏せ・防火信仰が中心ですし、京都愛宕神社には「雷神」もお祀りしてありますから、すでにこの時期の当社は「火雷神社」と呼ばれていたのではないでしょうか。

それにしても、社名がはっきりしないというのも、面白い(失礼)お社です。
  1. 2013/02/25(月) 05:37:21|
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陶荒田神社(その二十九)

火雷神社のご祭神についても、一般には、古來不詳だということになっています。

しかし、前出の「神社明細帳」によれば、別雷神(ワケイカヅチ)とされています。

その他には、火雷大神(ホノイカヅチ)とする説もあるようです。

別雷神は、大山咋神と玉依姫の間のお子で、賀茂別雷神社のご祭神です。

また、火雷大神は、雷に対する畏れや、その反面、稲妻と共にもたらされる雨の恵みに対する感謝などから、農耕民族としての古代日本人の信仰が生み出した雷神であるとされています。

なお、「和泉国式神私考」では、火之焼速男神としていますが、これは古事記にいう火之夜藝速男神のことを指しているものと思われます。

いずれにしても、火や雷の神様を御祀りした社と考えて、先ず間違いはなさそうです。
  1. 2013/02/24(日) 12:31:12|
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陶荒田神社(その二十八)

火雷神社の旧社地は、大鳥郡福田村字愛宕だといわれています。

陶荒田神社から北約1.3キロの地点、堺市中区福田にある今の愛宕神社がその旧地だそうです。

創建年代・由緒などは不詳とされていますが、大阪府が明治12年にまとめた「神社明細帳」には、「勧請年月不詳、蓋し正保年中当村開拓元祖氏家武俊再興す。后元治元年八月廿四日拝殿及弊殿焼失。翌乙丑年再建す」とあるそうですから、この地に古くから鎮座していた社であることに間違いはありません。
  1. 2013/02/24(日) 02:30:14|
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陶荒田神社(その二十七)

延喜式神名帳には、和泉国大鳥郡の式内社として24座の神社が列記されています。

そのうちの一つに、式内小社「火雷(ホノイカヅチ)神社」があります。

この神社は、明治41年2月、同じ式内社である陶荒田神社に相殿合祀されました。

石鳥居・石燈籠などは陶荒田神社へ移転され、社殿は売却されたということです。

この年、火雷神社を含めて近傍の13社が陶荒田神社に合祀されています。

ところが、現在、陶荒田神社の由緒書きには、これらの神社についての記載がなされていません。

ただ、火雷神社から移転されたという石灯篭2基は残っているようです。
  1. 2013/02/23(土) 20:56:30|
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陶荒田神社(その二十六)

江戸時代中期の真言宗の僧である契沖は、自著「万葉代匠記」(精選本)の中で、「今按、弓ノ末ヲ腹ト云故ニ梓弓腹野トツツクヘキヲ、文字ノ足ラネハ末之腹野トハ云ヘル歟。此野何レノ国ニアリト云事知ラス」と記しているようです。

契沖といえば、和泉国久井村や池田郷万町村に縁のある方ですから、やはり「此野和泉国陶邑辺ニアリト云フ」とやって欲しかったです。

もちろん、これは冗談です。

それはさておき、土屋文明著「万葉集私注」では、「スエは陶器製造地に呼ばれるので、諸国に多い。」とあります。

確かにそのとおりでしょうが、数多の「スエ」のうち、わが国最古で最大の生産地であったのは疑いもなく和泉国茅渟県陶邑です。

しかも、この地で焼かれた須恵器は、難波宮跡や平城京跡からも発掘されているそうです。

そうなると、「末之腹野」の第一候補は、和泉の陶邑だと考えざるをえなくなります。
  1. 2013/02/23(土) 02:24:13|
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陶荒田神社(その二十五)

「末の腹野」の比定地については、「万葉集「末之腹野尓鷹田為」考 : 巻十一・二六三八番歌の解釈をめぐって」において、神道 宗紀氏の考察が詳細を極めています。

それによれば、大和国添上郡陶、和泉国茅渟県陶邑、山城国宇治郡山科陶野、遠江国佐野郡幡羅、近江国蒲生郡周恵の各地が比定されています。

その他にも、三河国だとする説もあります。

しかし、陶野という地名は各地に有り、「はら野」が固有名詞か普通名詞かも決しがたいとすると説く向きもあります。

また、スエを地名、腹野を原野の当て字とする説、末ノまでを序、腹野を地名と解する説などもあるようです。
  1. 2013/02/22(金) 13:36:51|
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陶荒田神社(その二十四)

奈良県五條市須恵町二丁目に、「統(すえ)神社」という古いお社があります。

統はもともと「すべ」と発音されていたものが、「すえ」に転訛し、それが地名に及んだのだとされています。

当社は、誉田別命を祀る旧指定村社で、須恵の集落の只中の丘陵上に鎮座されています。

この神社付近一帯の地は、万葉集に読まれた、件の「末の腹野」ではないだろうかという説があります。

当社の近辺には、川原寺の創建時に瓦を供給したといわれる「荒坂瓦窯群」があります。

同瓦窯群は、昭和8年と47年に発掘調査が行われ、昭和49年に奈良県の史跡に指定されました。

須恵器と瓦をともに生産した瓦陶兼用窯跡として知られる、この遺跡からはこれまで12基の窯跡が確認されています。
この地域では、6世紀初めから須恵器の生産が始まり、7~8世紀にかけて盛んに瓦の生産が行われたそうです。

「須恵」という地名が、この地に現在まで残っているのも、むべなるかなという気がします。
  1. 2013/02/21(木) 00:55:12|
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陶荒田神社(その二十三)

愛知県豊田市上渡刈、愛知環状鉄道末野原駅から南東へ1.8kmばかりの地点に、糟目春日神社が鎮座しています。

当社は、参河國碧海郡の式内社で、ご祭神は天宇受賣命であり、彦火火出見命 素盞男命 天照大神が配祀されています。

その境内の南東に、「末野原聖蹟」と刻まれた大きな石碑が建っています。

石碑の裏面には、
「伝云フ大宝二年持統上皇三河二行幸アラセラレ蹕ヲ此ノ地二駐メ鷹狩ノ事ヲ行ヒ給フ依テ地名ヲ鳥狩ト称シ後世都賀利戸刈等ノ字ヲ用ヒ遂二渡狩ト記スルニ至ルノ所、梓弓末之腹野爾鷹田為君之弓食将絶跡念甕屋ノ歌ハ此ノ地ヲ詠ジタルナル可其ノ他古詠頗ル多シ今茲ニ大典ニ当リ謹ミテ聖蹟ヲ顕揚シ碑ヲ建設シ以テ之ヲ後世二伝。

 梓弓末の腹野に鳥狩する君が弓弦の絶えむと思へや

 梓弓 末之腹野尓 鷹田為 君之弓食之 将絶跡念甕屋
             
大正4年11月(1915)建立」と掘り込まれています。

なお、碑文に「大典ニ当リ」とありますが、これは同月10日執り行われた大正天皇ご即位の大礼のことを指しています
  1. 2013/02/20(水) 15:25:27|
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陶荒田神社(その二十二)

ところで、「すゑの原野」なる一句は、中世の歌人たちによって再発見された歌枕だといわれています。

歌枕とは、和歌に詠み込まれる歌ことばのうちの地名をさすことばです。

では、この万葉集の歌に由来する歌枕が表す「すゑの原野」とは、一体何処のことでしょうか。

一説には、山城の陶原(すえはら)だと言われています。

山城国宇治郡のうち末原とも書き、山科盆地東南部に位置する場所だとされています。

角川日本地名大辞典(旧地名編)によれば、現在の京都市山科区大宅付近に推定されるとあります。
  1. 2013/02/19(火) 23:18:57|
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陶荒田神社(その二十一)

大鳥居を潜った直ぐ右手に、1基の石碑が建立されています。

碑文に目をやると、「梓弓 末のはら野に 鳥猟する 君が弓弦の 絶えむと思へや」と読めます。

その直ぐ傍らには、地元自治会の「石ぶみ設立趣意書」がひっそりと佇んでいます。

この趣意書にもありますが、この歌は万葉集巻11、2638に、「梓弓(あづさゆみ) 末之腹野尓(すゑのはらのに) 鷹田為(とがりする) 君之弓食之(きみがゆづるの) 将絶跡念甕屋(たえむとおもへや)」とある古歌から牽いたものです。

「読人不知」ですが、リズム感のある鮮明な印象の歌です。

「末の原ので、鷹狩をするあなたの弓弦が絶えることのないように、私とあなたの仲も絶えるなどと思うことがあるだろうか。」

同じ歌は、新勅撰和歌集870に読人不知として入っています。

「あずさゆみすゑのはらのにとがりするきみがゆづるのたえむとおもへや」
  1. 2013/02/18(月) 23:32:24|
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陶荒田神社(その二十)

今回は、当社の末社について触れておきましょう。

境内に入ると右手に戎社、大田社、玉の緒社が連なっています。

そして、左手には老松社・山田社・弁財天社があります。

このうち、弁財天社は、小さな池の中に鎮座されています。

由緒書によれば、戎社は、八重事代主命をお祀りし、商売繁昌・家内繁栄の神、陶器の里の戎さんと呼ばれています。

次に、大田社は、大田田根子命がお祀りされており、言うまでもなく、当社創建の神様です。

続いて、玉の緒社は、天御中主命をお祀りし、このご祭神は万物生成の神様として崇められています。

左手に回ると、まず老松社は、ご祭神が不詳ながら、歯の神様として信仰されています。

山田社は、大田田根子の母君・活玉依姫命がお祀りされ、安産福寿の神様として信心されています。

弁才天社のご祭神は、市杵島姫命で、子宝授与の弁天さんとして親しまれています。
  1. 2013/02/18(月) 12:20:56|
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陶荒田神社(その十九)

前回では、当社のご祭神について、合点がいかないなどと失礼なことを書いてしまいました。

ところで、『新撰姓氏録』には、「和泉国神別 荒田直  高御魂命五世孫剣根命之後也」
とあるそうです。

これで、荒田直の祖先が、高御魂命から剣根命へつながる系譜であることがわかります。

したがって、紀州の荒田神社にも和泉の陶荒田神社にも、ご祭神として祖先の御霊がお祀りしてあるのは自然なことといえます。

さらに、『古代豪族系図集覧』という書物によると、剣根命の系譜は、高魂命-伊久魂命-天押立命-陶津耳命-玉依彦命-剣根命-夜麻都俾命-久多美命(葛城直祖)ということになっているようです。

大田田根子の母、活玉依比売は陶津耳命の女ですから、陶津耳命の二世孫には、剣根命と太田田根子がいることになります。

そうすると、剣根命と太田田根子は従兄弟同士ということになります。

大田田根子が、当社を創建された際には、母方のご先祖の御霊として「高魂命」をお祀りしましたが、後世に至って、荒田直が「剣根命」を合祀し、社名が「陶荒田神社」に改められたのではないでしょうか。
  1. 2013/02/17(日) 23:49:06|
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陶荒田神社(その十八)

では、そろそろ陶荒田神社に戻ることにしましょう。

当社の由緒書きには、「当社は延喜式(905年制定)にも載っている古社で、大田々禰古命が勅命を奉じて大和国大三輪大神を祀る神主となられた時、先祖の神霊を祀るために、この陶村すなわち茅渟県陶器郡の大田森に社を建立されたのが起源である」とあります。

大田々禰古命(大田田根子命)が大三輪大神を祀る神主となられた時、先祖の神霊を祀るために社を建立されたのが起源であるとするのであれば、当社の主祭神が、高魂命、劔根命、八重事代主命、菅原道真公というのは合点がいかない気がします。

ところで、紀伊國那賀郡に 荒田神社という式内社がありました。

現在も、それに比定される同名の古い社が、和歌山県岩出市森に残っています。

御祭神は、高魂命 劔根命です。

『紀伊続風土記』『名所図会』では、「和泉国大鳥郡陶荒田神社」と同神となっているそうです。

当社にもその名を残している「荒田直」という人物が、その祖神を祀った神社だとされています。
  1. 2013/02/16(土) 02:46:05|
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陶荒田神社(その十七)

これで、我らが主人公、大田田根子は、大物主大神を祀る祭主となったわけですが、さてその神社が何処に置かれたかについては、古事記の記述を待つしかありません。

「即以意富多多泥古、為神主而、於御諸山拝祭意富美和之大神前」

「すなはち意富多多泥古命もちて神主として、御諸山に意富美和の大神の前を拝き祭りたまひき」

御諸山(みもろやま)とは、現在の三輪山のことで、そこに意富美和之大神(おおみわのおかみ)を祀られたということになります。

つまり、大田田根子命は、三輪神社の別称を持つ大神神社の神主になられたのです。
  1. 2013/02/14(木) 23:38:38|
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陶荒田神社(その十六)


天皇は、大田田根子の答えを聞かれて,たいそう歓ばれました。
そこで、天皇は、以下日本書紀の記述によると以下のように、振る舞われました。
「十一月丁卯朔己卯、命伊香色雄、而以物部八十平瓮、作祭神之物。即以大田々根子、為祭大物主大神之主。又以長尾市、為祭倭大国魂之主。然後、卜祭他神、吉焉。便別祭八十萬群神。仍定天社・国社、及神地・神戸。」

その結果、すべてが順調になりました。

「於是、疫病始息、国内漸謐。五穀既成、百姓饒之。」

「十一月十三日、伊香色雄に命じて、沢山の平瓮を神祭の供物とさせた。

大田々根子を、大物主大神を祀る祭主とした。

また、長尾市を倭の大国魂神を祀る祭主とした。

それから他神を祀ろうと占うと吉と出た。

そこで八十万の群神を祀った。よって天社・国つ社・神地・神戸をきめた。

ここにおいて疫病ははじめて収まり、国内はようやく鎮まった。

五穀はよく稔り、百姓は賑わった。」

長尾市とは、大倭直を称する氏族の始祖に当たる人物です。
また、神戸とは、神社の用に充てられた民戸のことです。
  1. 2013/02/14(木) 11:52:02|
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陶荒田神社(その十五)

古事記にいう「河内の美努村」とは、一般的には河内国若江郡三野付近とされています。

現在の地名では、「八尾市上之町南」辺りとなります。

三野は、美努とも書きます。

ところで、和泉国が河内国から分国されたのは、孝謙天皇・天平法字元年(757年)5月8日のことです。

因みに、古事記の成立は、元明天皇・和銅5年(712年)1月28日だとされています。

日本書紀の方は、それに遅れること8年、元正天皇・養老4年(720年) 5月に完成しました。

いずれの書物も、分国前の旧河内国時代に編纂されたものですから、「陶邑」が河内国に属していても何の不思議もありません。

それでは、河内の陶邑と同じ河内の美努村とは、どのような関係にあったのでしょうか。

ところで、「美努村」は「茅努」の誤りであるという説があります。

そうすると、大田日根子は、河内国の茅努に住んでいたことになります。

茅努は、和泉地方の古い呼び名です。

さらに、陶荒田神社が鎮座する「上之」の東部に、隣接して「見野山」という地名が残っています。

これは、明治22年4月1日の町村制施行により消えた「旧見野山村」の名残だと思われます。

当社は,これも町村制施行で姿を消した「旧上之村」に在るわけですが、大胆な解釈をすれば、古代には、この一帯は「見野」という地名で一括りにされていたと考えることもできます。

そして、古代における日本最大の須恵器生産地であった、この辺りは、通称「陶邑」と呼び習わされていたのではないでしょうか。
  1. 2013/02/13(水) 16:07:22|
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陶荒田神社(その十四)

更には、日本書紀と古事記では、大田田根子の出身地も異なっています。

古事記においては、「求謂以意富多多泥古人之時、於河内之美努村、見得其人貢進」とあります。

つまり、大田田根子は、河内の美努村にいたことになります。

一方、日本書紀上では、前述しましたように、「即於茅渟縣陶邑得大田々根子而貢之。」とあり、大田田根子は、茅渟縣陶邑に在住していたことになります。

では、「河内の美努村」と「茅渟縣陶邑」とは、果たして同一の場所だったのでしょうか。
  1. 2013/02/12(火) 10:18:42|
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陶荒田神社(その十三)

ここで、耳慣れない人名も出てきましたので、系譜を少し整理しておきましょう。

まず、大田々根子ですが、古事記の記載によると、彼は大物主神の四世の孫ということになっています。

「爾天皇問賜之汝者誰子也、答曰、僕者大物主大神、娶陶津耳命之女、活玉依毘賣生子、名櫛御方命之子、
飯肩巣見命之子、建甕槌命之子、僕意富多多泥古曰、」

「汝は誰の子か」という天皇の問いに答えて、意富多多泥古(大田々根子)は、「私は大物主大神が、陶津耳命の娘、活玉依毘売を娶って生んだ子の、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子で、私は意富多多泥古です」と言いました、とあります。
  1. 2013/02/11(月) 20:02:22|
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陶荒田神社(その十二)

以上縷々と述べました伏線が、「倭迹速神浅茅原目妙姫・穂積臣の遠祖大水口宿禰・伊勢麻積君、三人、共に夢を同じく」するご神託に繋がるわけです。

天皇は、自ら受けた夢の言葉と並び合わせて、大いに歓ばれました。

「天皇得夢辞、益歓於心。布告天下、求大田々根子、即於茅渟縣陶邑得大田々根子而貢之。天皇、即親臨于神浅茅原、会諸王卿及八十諸部、而問大田々根子曰、汝其誰子。対曰、父曰大物主大神。母曰活玉依媛。陶津耳之女。亦云、奇日方武茅渟祇之女也。天皇曰、朕當栄栄。乃卜使物部連祖伊香色雄、為神班物者、吉之。便祭他神、不吉。」

「天皇は夢の言葉を得て、ますます心に歓ばれた。あまねく天下に告げて大田田根子を求められた。茅渟縣の陶邑に、大田田根子が見つかり、これをお連れした。

天皇は自ら、神浅茅原におでましになり、大田田根子に尋ねていわれるのに、「お前は一体誰の子か」と。
田根子が答えて曰く「父を大物主大神、母活玉依姫といいます。陶津耳の娘です」。

また別に「母は奇日方武茅渟祇の女」ともいわれている、とお答えした。

天皇は「ああ、私はきっと栄えるだろう」といわれた。

そこで物部連の先祖の伊香色雄を、神班物者としようと占うと吉と出て、またついでに他神を祭ろうと占うと吉からずと出た。」
  1. 2013/02/10(日) 13:27:41|
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陶荒田神社(その十一)

天皇は、大いに悩み、自らを責められました。

「天皇乃沐浴斎戒、浄潔浄殿内、而新之曰、朕禮神尚未尽耶、何不享之甚也。冀亦夢裏教之、以畢神恩。是夜夢、有一貴人。対立殿戸、自称大物主神曰、天皇、勿復為愁。国之不治、是吾意也。于若以吾見大田々根子、令祭吾者、即立平矣。亦有海外之国、自當帰伏。」

そこで天皇は斎戒沐浴して、殿内を浄めてお祈りして、いわれるのに、「私の神を敬うことがまだ不十分なのでしょうか、どうしてそんなに受け入れて預けないのでしょうか。どうかまた夢の中で教えて、神恩をお垂れ下さい」と。

そうすると、この夜の夢の中に一人の貴人が現われ、殿舎に向かって、自らを大物主と名乗って、
「天皇よ、そんなに憂えなさるな。国の治まらないのは、吾が意によるものだ。

もしわが子大田々根子に、吾を祀らせたら、たちどころに平らぐだろう。また海外の国も自ら降伏するだろう」と告げられた。
  1. 2013/02/10(日) 00:00:00|
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陶荒田神社(その十)

そこで、天皇は神浅茅原に赴かれて、その地で占いをされました。

「於是、天皇之幸于神浅茅原、而會八十萬神、以卜問之。是時、神明憑倭迹々日百襲姫命曰、天皇、何憂国之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣。天皇問曰、教如此者誰神也。答曰、我是倭国域内所居神、名為大物主神、時得神語、髄教祭祀。然猶於事無験。」

「天皇はそこで神浅茅原にお出ましになって、八十万の神々をお招きし、占いをなされた。

このときに神明は、倭迹迹日百甕姫命に神懸りして、いわれるのことは、「天皇はどうして国の治まらないこと憂えるのか。もしよく吾を敬い祀れば、きっと自然に平らぐだろう。」と。

天皇は問うて「このようにおっしゃるのはどちらの神ですか」と。

答えていわれるには、「我は倭国の域の内にいる神で、名は大物主神という」と。

この神のお告げを得て、教えのままにお祀りしたけれども、なおも験がなかった。」
とされています。

なお、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)は、孝霊天皇の皇女で、日本書紀では、母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)となっています。
  1. 2013/02/09(土) 12:11:50|
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陶荒田神社(その九)

天皇を囲む厄災は、日々を経ても消えうせることはありませんでした。

天皇は悩み苦しまれました。

そこで、「七年春二月丁丑朔辛卯、詔曰、昔我皇祖、大啓鴻基。其後、聖業逾高、王風轉盛。不意、今當朕世、数有災害。恐朝無善政、取咎於神祇耶。盍命神亀。」

「昔。わが皇祖が大業を開き、その後、歴代の御威徳は高く、王風は盛んであった。
ところが思いもかけず、今わが世になってしばしば災害にあった。朝廷に善政なく、朕は神が咎を与えておられるのではないかと恐れる。占いによって災いの起こるわけを究めよう」と決心されました。
  1. 2013/02/09(土) 09:52:07|
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陶荒田神社(その八)

大意は、
 「崇神天皇六年、百姓の流離するもの、或いは反逆するものもあり、その勢いは徳を以て治めようとしても難しかった。

そこで、天皇は、朝夕天神地祇にお祈りを捧げた。

これより先、天照大神・倭大国魂の二神を、天皇の大殿の内にお祀りした。

ところが、その神の勢いを畏れ、共に住むには不安が生じた。

つまり、宮中に天照大神と倭大国魂の二神を祭っていたが、天皇は二神の神威の強さを畏れ、宮の外で祀ることにした。

そこで、天照大神を豊鍬入姫命に託し、大和の笠縫邑に祀った。よって堅固な石の神籬(神の降臨される場所)を造った。

また日本大国魂神は、渟名城入姫命に預けて祀られた。

ところが渟名城入姫命は、髪が落ち体が痩せてお祀りすることができなかった。」ということです。

豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)は、崇神天皇の皇女で、母は紀国造荒河戸畔(あらかわとべ)の娘です。

渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)も、崇神天皇の皇女で、母は尾張の大海媛です。
  1. 2013/02/09(土) 00:19:27|
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