案山子のダンス

戯れに、小説など。照れますな。

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高倉寺宝積院(その十五)

一方、宝積院にも、星曼荼羅図という宝物が伝えられています。

この図は、大阪府指定有形文化財に指定されています。

そもそも、曼荼羅とは「真髄を具えたもの」という意味ですが、星曼荼羅図は人間の運命を左右すると考えられている星々を供養するために作られたものです。

星曼荼羅は北斗曼荼羅とも呼ばれています。

密教の修法に北斗法と呼ばれるものがあります。

北斗法とは、天変,疫病,夭死などの災を除き,息災延命を祈願するために,一字金輪北斗七星を供養する修法のことです。

この北斗法の本尊として祀られるため、星曼荼羅は北斗曼荼羅という異名を与えられているのです。
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  1. 2013/01/31(木) 08:14:38|
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高倉寺宝積院(その十四)

巨勢金岡の仏画はさておいて、高倉寺には、たいへん貴重な文化財が残されています。

それは、高倉寺の法起菩薩堂に長年祀られてきた「法起菩薩曼荼羅図」です。

堺市文化財指定のこの図には、「法起菩薩」という仏様が描かれています。

この仏様は、金剛山の修験の仏として信仰され、現に金剛山転法輪寺のご本尊も法起菩薩です。

五つの眼と六本の腕(五眼六臂)を持ち、恐ろしい表情で岩上に佇立されているお姿は、仰ぎ見る者を畏怖させるだけの迫力をお持ちです。

法起菩薩とは、役小角が金剛山で修業中に現れた仏様です。

そのお姿を仏像にして安置されたそうです。

憤怒の形相からは、想像しにくいのですが、法起菩薩は農耕の守護佛だそうです。

この珍しい日本生まれの仏様は、絵画ではこの作品が唯一の例だと考えられているようです。

さて、この図の製作者と製作時期についてですが、堺市の資料によると、裏打紙に記されている銘文から、室町時代・15世紀中頃のものではないかとされています。

作者は南都の絵仏師「太輔法眼清賢」だと推定されるそうです。
  1. 2013/01/30(水) 05:59:35|
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高倉寺宝積院(その十三)

「巨(こ)勢(せの)金岡(かなをか)が画(ゑかき)し佛像(ぶつざう)の一軸(ぢく)あり」

これも、和泉名所図会の記載です。

では、巨勢金岡とはどのような人物なのでしょうか。

美術人名辞典によると、「平安前期の画家。巨勢派の開祖。姓は紀。中納言野足の子。もと難波氏、初釆女正に任じられ、清和・陽成・光孝・宇多及び醍醐の王朝に仕えて官大納言に至る。仏像画を多く描いた。晩年は剃髪して仁和寺に閑居した。延喜年間歿したと伝えられる」とあります。

著名な人物の割には、生没年すら未詳です。

彼は、絵の才能を朝廷に認められ、宮廷画家として活躍しましたが、残念なことにその作品が現存していません。

彼が住んでいたといわれる現在の堺市北区金岡町には、彼を祀った金岡神社があります。

北区の金岡町から南区の高倉台といえば、わずかな距離で隔てられているだけです。

高倉寺に金村の一軸があったとしても、何の不思議もありません。

仏像画をよくしたという金村の作品が、高倉寺に未だ残っているのであれば、こんな凄いことはありませんよね。
  1. 2013/01/29(火) 06:41:48|
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高倉寺宝積院(その十二)

脱線ついでに、陶器山七不思議について少しだけ触れます。

陶器庄には昔、「黄金塚」と呼ばれる小高い丘がありました。

この丘の上には黄金が埋めてあり,夜な夜な怪しい光を放ったということです。

また、この地は「まき塚」とも名付けられていました。

弘法大師が、経巻をこの丘に埋められたため、「巻塚」と呼んだのではないか、ともいわれています。

この地名は、現在の泉北ニュータウン槙塚台に引き継がれています。

槇の字が用いられているのは、造成前のこの一帯には槙の樹木が多かったからだそうです。
  1. 2013/01/28(月) 04:34:29|
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高倉寺宝積院(その十一)

陶器山七不思議の一つ「梵字ヶ芝」とは、かつて陶器山の中腹で、弘法大師が手に持った楊杖で「かんまん」という梵字を地面に掘られたそうです。

それは、千年以上も経過しているのに少しも埋もれず草や笹も生えず、また字の姿かたちも崩れなかった、といわれています。

中にはきれいな水が溜まり、その水を飲めば難病も治ると伝えられ、多くの人がお参りしていたそうです。

ちなみに、「かんまん」という梵字は、「かん」が不動心、「まん」は柔軟心を表しているそうです。
  1. 2013/01/27(日) 06:31:28|
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高倉寺宝積院(その十)

またまた、和泉名所図会からの引用で恐縮ですが、陶器(たうきの)庄(しやう)  髙倉(たかくら)寺(じ)のくだりに、「梵(ぼん)字(じ)芝(しば)といふあり。髙倉(たかくら)村より十町許(ばかり)東にして、地上に梵(ぼん)字(じ)の形(かたち)に凹(なかくぼ)なる土地あり。年(とし)を歴(ふ)れども、埋(うずも)れず。又、芝(しば)生(ふ)生(しよう)ぜずといふ。」とあります。

この梵字の形に窪んだ土地があり、年を経ても埋まることなく、草も生えない、という奇瑞めいた言い伝えについては、陶器山七不思議の一つとして伝承が残っています。

陶器山というのは、泉北・狭山両ニュータウンの境界に沿って、壁のように続く小高い山のことです。

ちょうど和泉と河内の国境に沿って連なり、その尾根道は岩室から天野山金剛寺に至る「あまの街道」と呼ばれる参詣道になっています。
  1. 2013/01/27(日) 04:15:21|
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高倉寺宝積院(その九)

堺市設置境内案内板には、次のように書かれています。
「慶長末年(1614)岸和田城主小出播磨守秀政の三男小出大隅守三尹が分家して陶器村に陣屋をおき、当寺に帰依して諸堂の修理・改築などを尽くしました。」

小出三尹は、岸和田藩主であった小出秀政の四男であり、慶長9年(1604年)、但馬国出石藩主であった兄吉政が和泉国岸和田藩に移った後、出石藩を継いだ甥の吉英から和泉大鳥、河内錦部、摂津西成、但馬気多・美含の5郡内で1万石を分封されて、和泉陶器に陣屋を置いた「陶器藩」の初代藩主です。

三尹の母は、秀吉生母大政所の妹といわれていますから、豊臣家とは非常に近しい間柄でありました。

なお、案内板では、陶器藩立藩を慶長末年(1614)の事柄としていますが、これは何かの誤りで、正しくは慶長9年(1604年)です。

三尹の墓所は、東京都渋谷区広尾の祥雲寺にありますが、高倉寺墓地には、陶器小出家の御廟が置かれています。
  1. 2013/01/25(金) 23:41:14|
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高倉寺宝積院(その八)

「和泉名所図会」に少々興味がひかれる一文が載っています。
「水天尊(すいてんそん)の影像(ゑいざう)あり。弘法(こうばう)大師の真筆(しんひつ)也。正平年中大旱(かん)あり。勅(みことのり)あつて、請(しやう)雨(う)の法(はう)を十七ケ日、此尊像(そんざう)に修(しゆ)行(ぎやう)ありければ、忽(たちまち)、膏(かう)雨(う)頻(しきり)に降て、百(ひやく)姓(せい)太平(たいへい)を誦(うた)ふ。」

正平とは、南朝方が用いた元号です。

1346年から1369年までの期間を指します。

正平年中に、この地方は大旱魃に見舞われたという記事ですが、さて、それは何時のことだったのでしょうか。

ところで、妙顕寺の僧大覚が、延文3年(1358) 後光厳天皇の命により、雨乞いの祈祷を行い、効験が現れたという記録が残っています。

延文3年とは、正平13年に当たります。

南朝方は、後村上天皇の御世です。

京都で日照りが続いたとあれば、和泉国も大旱に悩まされたとしても不思議はありません。

後村上天皇の勅命により、高倉寺の僧が、空海真筆の「水天尊」の尊像を前にして、一心不乱に雨乞いの修行をしている姿がありありと目に浮かぶような気がします。

17日に及ぶ修行の甲斐あって、沛然として驟雨が来ったというわけです。

まさに、恵みの雨の到来です。

ちなみに、水天尊とは、密教 十二天のひとつである水の神様です。

それにしても、この「和泉名所図会」、水天尊(すいてんそん)の影像(ゑいざう)あり。弘法(こうばう)大師の真筆(しんひつ)也、と言い切っているところが凄い。

大した自信です。
  1. 2013/01/25(金) 01:24:47|
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高倉寺宝積院(その七)

寺伝によれば、本坊宝積院には、豊臣秀吉の命で小堀遠州が造園したとされる「亀」の庭園と茶室「寶聚庵」があります。

亀の庭園というのは、その名のとおり庭園自体が亀の形をしているからです。

特に、茶室の方は、後に秀吉がここで茶会を開いたとき「寶積院」と「聚楽第」の頭文字をとって「寶聚庵」と命名されたと伝わっています。

ところで、小堀遠州は、文禄4年(1595)に秀吉直参となっていますが、遠州は天正7年(1579)の生まれですから、このとき僅か満16歳です。

秀吉は、慶長3年(1598)に没していますから、遠州が秀吉に仕えたのは、約3年という短い期間です。

また、慶長8年(1603) から慶長17年まで、古田織部から茶湯伝授を受けたとされています。

この時期、同時に織部から作庭術も学んだとすれば、宝積院の庭と茶室の由来も何やら疑問符が付きかねませんが、遠州若年の作だということにしておけば、ロマンは、それなりに保たれることになるのでしょう。
  1. 2013/01/24(木) 04:03:19|
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高倉寺宝積院(その六)

境内案内板によれば、その後の高倉寺は、中興の祖とも言うべき真海僧正、ついで僧快盛が復興に務め、天正末年(1591年)には金堂を再建し、行基作と伝えられる薬師如来が本尊として安置された、とあります。

たしかに、寛政8年(1796年)に発行された『和泉名所図会』には、

陶器(たうきの)庄(しやう)  髙倉(たかくら)寺(じ)
陶器(たうきの)荘(しやう)髙倉(たかくら)村(むら)にあり。真言宗。
金堂(こんだう)
本尊、藥師佛、行基作。・・とあります。

しかし、ここに出てくる真海僧正と僧快盛については、その人物・経歴は今一つはっきりしません。

いずれまたおりを見て、調べてみたいと思います。
  1. 2013/01/23(水) 06:09:18|
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高倉寺宝積院(その五)

高倉寺は、歴史上数々の厄災に会い、一時は、その伽藍の殆どを失うほどの衰退ぶりを示しました。

列挙すれば、南北朝時代(1336~1392年)、応仁・文明の乱(1467~1477年)、永正7年(1510)の大地震、織田信長の焼き討ちなどがあげられます。

永正7年の大地震とは、永正7年8月8日に摂津・河内で起こったM6.5~7の大地震で、摂津・河内の諸寺で被害、大阪で潰死者があったと伝えられています。余震が70余日続いたそうです。
「織田信長の根来攻め」のとばっちりも受けているようですね。
  1. 2013/01/22(火) 09:44:16|
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高倉寺宝積院(その四)

堺市設置境内案内板によれば、「当寺に御幸された高倉天皇(1168~1179)から多くの朱印地と『高倉山天王院』の山号と寺号を賜りました。」とあります。

高倉天皇とは、第80代の天皇で、後白河天皇の第7皇子です。母は平時信の女滋子。

この天皇の時代は、平清盛の権勢盛んなときにあたります。

たしかに、全盛期の当院は、境内が現在の茶山台(高倉台隣接区域)を含む約10万坪にわたり、七堂伽藍や49の子院を有した大きな寺院であったといわれています。
  1. 2013/01/21(月) 03:05:14|
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高倉寺宝積院(その三)

弘仁元年(810)には、弘法大師が高倉寺に参来されました。

大師は、境内に潅頂の道場を構えられ、布教に努められました。

灌頂とは、密教で行う儀式の一つで、頭頂に水を灌いで緒仏や曼荼羅と縁を結び、種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とする為に行われるものだそうです。

大師はまた、大日如来像を彫り、宝塔を建立して、その像を安置された、と伝えられていますから、ご滞在は相当長期にわたったのでしょうね。
  1. 2013/01/20(日) 09:58:10|
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高倉寺宝積院(その二)

行基の開創伝承をもつ寺は大阪府南部にも多数存在しますが、高倉寺は、行基の生家である「家原寺」に次いで、いわゆる「行基開創49院」の二番目の「大須惠院」として建立されたといわれています。 

寺号の「須惠」は、須惠器の「陶(すえ)」に由来するものです。

和泉国大鳥郡大村里大村山、現在の堺市南区高倉台付近は、当時、須恵器の一大生産地として知られていました。

この周辺は、日本書紀崇神天皇7年条にある「茅渟県陶邑」の最有力候補地に比定されています。

須恵器とは、わが国で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器のことですが、高倉寺創建時には既に大村里では、その生産高は斜陽の途を辿っていました。

「大須惠院」という寺号は、大村里の再興を期して付けられたと伝えられています。

「秋八月癸卯朔己酉、倭迹速神淺茅原目妙姬・穗積臣遠祖大水口宿禰・伊勢麻績君、三人共同夢、而奏言、昨夜夢之、有一貴人、誨曰、以大田々根子命、爲祭大物主大神之主、亦以市磯長尾市、爲祭倭大國魂神主、必天下太平矣。天皇得夢辭、益歡於心。布告天下、求大田々根子、卽於茅渟縣陶邑得大田々根子而貢之」
  1. 2013/01/19(土) 21:18:04|
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高倉寺宝積院(その一)

泉北ニュータウンの家並みに取り囲まれた小高い丘の上に、一山の古刹が緑に包まれてひっそりと佇んでいます。

大修恵山高倉寺宝積院です。

寺格は高く、それを示すように参道のたもとには、「真言宗一等格院」と彫り込まれた石柱が厳しく立ち尽くしています。

寺伝によれば、慶雲2年(705年)、文武天皇の勅命を受けて、行基が開いたとされています。
  1. 2013/01/19(土) 01:58:45|
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岩室山観音院

堺市南区岩室に、古いお寺があります。

高野山真言宗の寺院で、世間では岩室山観音院と呼んでいますが、正式な名称は極楽寺観音院というのだそうです。

寺伝では、行基の開基によるもので、当初は巖室山極楽寺と号していたようです。
ところが、後に弘法大師が留錫された砌に、十一面観音を彫り安置しましたが、その際に、寺号を現在の岩室山観音院と改めたと伝えられています。

極楽寺は、平安時代には七堂伽藍が完備され、塔頭寺院を擁した大寺院であったといいます。

しかし、時代が下ると、戦国の兵乱や大坂夏の陣などの兵火にかかり、殆どの塔頭や伽藍が焼失しましたが、幸いにして十一面観音像や阿弥陀如来像はその度に難を免れ、現在にまで伝えられることになりました。

実は、この阿弥陀如来座像は行基の自作と伝えられており、十一面観音立像とともに大阪府指定有形文化財に指定されています。

現存の堂塔は江戸時代初期、慶安3年(1650)に再建されたものです。

なお、江戸時代には、このお寺は霊験あらたかな厄除観音として、近畿一円からの信徒を集めて、隆盛を誇ったといいます。

現在も、「和泉西国第8番」、「和泉霊場第16番」の札所として、訪れる参詣者は少なくないようです。

境内は、堺市指定の保存樹林に囲まれていて、閑静な趣をたたえています。

鐘楼の梵鐘は安永6年(1777)2月3日の銘があります。

大晦日の除夜の鐘には、毎年多くの信者が訪れてきます。
  1. 2013/01/17(木) 15:18:09|
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延喜式神名帳

延喜式という古い書物があります。

それは、平安時代中期に編纂された格式で、今流にいえば律令格の「施行細則」とでもいうべきものです。

全50巻、約3300条からなる膨大な法令集ですが、その巻9・10は神名帳となっています。

この神名帳には、当時の官社の一覧表が国別に記載されています。

ここに載せられた神社が、いわゆる「式内社」ということになります。
 
神名帳には、それぞれの神社の社格が示されています。

社格とは神社の資格の等級を表したものです。

まず、公的に幣帛を受ける神社のことを官社といいます。

幣帛とは、簡単に言えばお供えもののことです。

官社には、官幣社と国幣社とがあります。

神祇官から幣帛を受ける神社を官幣社、国司から受ける神社を国幣社と呼びます。

官幣社、国幣社には、それぞれ大社、中社、小社の序列があります。
  1. 2013/01/16(水) 12:21:44|
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狭山堤神社

南海高野線の「金剛駅」の直ぐ傍に、鎮座まします一社があります。

その所在地に因んで、半田の大宮とも呼ばれている「狭山神社」です。

ご祭神として天照大神、素盞鳴命の二柱を祀りし、古来狭山の郷の鎮守として崇敬されてきた由緒あるお社です。

狭山神社は、崇神天皇の勅願により創建せられたと伝えられる延喜式神名帳の河内国丹比郡の大社です。

狭山神社の境内には、狭山堤神社が合祀されています。

狭山堤神社は、狭山池築造に功績があった印日子命(印色入日子命)をご祭神としています。

同社は、合祀前は狭山池の東側に面した明神山に鎮座されていましたが、明治40年12月26日に郷社狭山神社に移転され、境内社になられました。

なお、狭山堤神社も式内大社であり、同一敷地内での大社二座は非常に珍しい例といえます。
  1. 2013/01/15(火) 04:16:07|
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狭山池考(その二)

印色入日子命は、日本書紀の中では「五十瓊敷入彦命」という名前で登場します。

日本書紀 卷第六 活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇の条では、「卅五年秋九月 遣五十瓊敷命于河内國 作高石池 茅渟池」とありますが、狭山池については触れられていません。

ちなみに、『和泉志』によると高石池は阪和線の富木駅のある高石市の乙池であり、茅渟池は泉佐野市下互屋南付近にあったことになっています。

ところが、現在、泉佐野市には「茅渟」の名を持った溜池は存在せず、実在したかどうかも確定できませんが、「道ノ池」「布池」が「茅渟池」として想定されているとのことです(『泉佐野何でも百科』 泉佐野市役所)。
  1. 2013/01/14(月) 09:38:57|
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狭山池考

大阪府の南部に、大阪狭山市と呼ばれる小さな街があります。

そこには、日本最古のダム式溜池といわれる「狭山池」が横たわっています。

この地方は丘陵地帯であるため、水に恵まれず古来、灌漑には苦労が伴いました。

しかし、飛鳥時代の前期に天野川と今熊川が堰き止められて、この池が築造されると、近辺の村々では水耕が盛んになりました。

「さやまの池」は、古書にも多く触れられています。

日本書紀には、「農は天下の大本なり。…今、河内の狭山の植田水少なし。是を以て其の国の百姓、農のことを怠る。其れ多に池溝を開きて民業を寛かにせよ」と記述されています。

これは崇神天皇62年7月2日の条にあります。

また、古事記には、「印色入日子命、血沼池又狭山池を作る」とあります。

ちなみに、印色入日子命(いにしきいりびこのみこと)とは、垂仁天皇の第2皇子で、母は日葉酢媛命です。

さらに、清少納言の枕草子第三十八段には、「狭山の池は、三稜草(みくり)といふ歌のをかしきが、おぼゆるならむ」と記されています。

「三稜草といふ歌」とは、古今和歌六帖・第六にでてくる、「恋すてふ狭山の池の三稜草こそ引けば絶えすれ我は根絶ゆる」のことです。

清少納言は、この歌が気に入って、狭山池のことを覚えていたのですね。

付け加えておきますと、三稜草とは、ミクリ科の多年草で池沼などでよく見られる植物です。
  1. 2013/01/11(金) 04:19:43|
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ノンステップバス

最近バスに乗る機会が増えましたが、ノンステップバスは高齢者にとっては意外に危険な乗り物なのですね。

車内の後部には段差があり、移動する際には転倒の危険があります。

それに、タイヤの寸法に改良を加えてないままで、床面の高さが下げられていますので、前輪のホイールハウスが車内に見苦しいほど張り出しています。

そのため、前扉から降車する際には、その通路の狭さが乗客の動きを阻害します。

なによりも、前扉と運転席直後の2座席は、小山のように盛り上がっていて、それこそよじ登らなければ座れません。

下車する際も一苦労です。

この部分が荷物置き場になっている車両に乗り合わせると、思わずむべなるかな、と呟きたくなります。
  1. 2013/01/08(火) 00:25:28|
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大寒、小寒

今年の冬は、厳しい寒さが続きそうです。

ペルー沖の太平洋赤道付近で、海面温度が低下する現象が起こっているようです。

深海から冷水が沸きあがって、太平洋では貿易風が強まります。
そのため、西向きの海流が発生します。

これを気象学では、ラニーニャ現象と呼んでいます。

ラニーニャ現象が発生した年は、日本付近では、冬の気温は平年並みから低めとなる傾向があるそうです。

ラニーニャとは、スペイン語で「女の子」(La Niña)を意味する言葉です。

しばらくは、この悪戯な女の子に悩まされる日々が続きそうですね。
  1. 2013/01/05(土) 03:27:26|
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